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081. 私は自分の弱い部分を隠さなかった

私は自分の弱い部分を隠さなかった

2022年12月16日

Heart Dwellers 家族の皆さん、ここ数日は私が疲れました。 もし皆さんが入り込んで来る闇に立ち向かって祈ってくださったら、皆さんも疲れるのを感じながら過ごしただろうと思います。 私はエネルギーを補うためにたくさん休んだのですが、働いて何か生産的になりたいので、そのように休んだことに対して罪悪感を感じます。 そして、私たちの新しいアルバムが出る予定ですが、そのアルバムだけでなく、私たちのチャンネルには主の御言葉もたくさんありますが、主からインスピレーションを受けた賛美曲もとてもたくさんあるでしょう。 誰にとってもこれらはすべて無料ですので、お気軽にダウンロードしてください。

私たちが私たちの共同体の家族と一緒に祈りに来た時、主は話し始めました。

「愛する者たちよ、苦痛と極度の疲労について申し訳ない。」

はい、そうでしたね。私も線維筋痛で痛みがひどかったんですが、 とてもひどかったですね。

イエス様が続けておっしゃっていました。 「しかし、あなたたちが捧げた苦痛のいけにえは、多くの魂を撫でていると私が言うしかない。 あなたたちの供え物がなかったら、彼らは飢えて寒くて寂しくさまよっていただろう。 このような矛盾した状況を私が許可する時、あなたたちが私を単純に信頼した方が良いだろう。 しかし、あなたたちが可憐な土器のような存在であり、慰められる大きな必要がある存在だということを私はよく知っている。 そのため、このようなことを語っている。」

「主よ、主の心に言われたいことはありますか?」

「共同体の中での兄弟愛。 あなたたちが互いのために犠牲になって愛しているのを見ると、本当に大きな喜びを私にもたらす。 本当に大きな喜びだ。 こんな私の喜びからあなたたちは力を得ることができる。 あなたたちが互いをよく世話する時、私の心は深く感動し、あなたたちにもっと多くの恩恵を与えようとする渇望が湧いてくる。」

「あなたたちの多くが世の中と自分の家族のために重い感情の重荷を負っていることを私はよく知っている。 このようなことも、あなたたちをもっとあなたたちの内面に傾かせ、友情のこもった互いの関係に入れないようにさせることができる。 あなたたちが互いに透明で、互いの荷物を分けて負うことを私がどれほど望んでいるか分からない。 自分の苦痛を隠す修道士たちの伝統的なやり方が、ある魂には有益だが、皆に有益なわけではない。」

「あなたたちの兄弟や姉妹が、自分たちが抱えている荷物について話さずに分けなければ、あなたたちはどうやってその兄弟や姉妹を理解し、同情することができるだろうか? ただ彼らを見て、何か困難があるか推測することしかできないだろう。 子供たちはあなたたちの苦労や苦痛を見ればそれを隠さない。 特に、あなたたちがとても小さなことにも喜ばれたり、楽しんだりしない姿で共同体の集まりに現れる時、子供たちはそれに気づき、それを隠さない。 あなたたちが静かな姿をして、なぜか無愛想な姿を見せる時、何かがあなたたちを苦しめていると他の人たちは考え、またその原因が自分にあると人々はしばしば考えたりする。 そうだ。こんなパターンは愚かなものだ。 しかし、これが人間の属性でもあり、サタンによって煽られたものでもある。 兄弟をいつも惨めにするサタンは、他人の否定的な何かの原因があなたたちにあると思わせる。 サタンは決して眠らない。 それであなたたちが透明に自分を表わし、あなたたちの荷物を共同体と共に分かち合って祈りを求める時、私の胸がいっぱいになる。 このようなやり方で、あなたたちは冷たいほど強い者になるよりも、自分で十分な者になるよりも、謙虚になり、小さくなり、互いに依存するようになるのだ。」

「神の国を建設することの一部は、私たちの兄弟と姉妹のために私たち皆が持つ心配と世話だ。 もし人々が自分の荷物を自分だけ背負って、その苦痛の原因について分けなければ、共同体の他の人々は寛大さが育たないだろう。 それでクレアに目に見えない領域で起こっていることについて話させたわけだ。 こうして、あなたたちは皆、彼女に近づき、彼女を慰める機会を持つことになるのだ。 あなたたちが彼女の戦いを知らなければ、どうしてあなたたちの哀れみが育ち、どうしてあなたたちの親切さでその戦いを減らすことができるだろうか。」

「どんな男もどんな女も島のように存在できない。 不平もイライラもなく、透明に現れることは不可欠だ。 そうしてこそ、他の人たちがあなたたちに近づくことができ、心からの憐れみの気持ちを見せながらあなたたちを助けることができる。 私はあなたたち皆が表と裏が同じ本物になることを願う。 あなたたちの弱い部分と経験している困難を表してほしい。 あなたたちはここで見た目に聖なるふりをする聖なるゲームをしろとここに呼ばれたのではない。 そんなことは世界的な教会がすることであり、結局それは自分たちに損害を与えることになるだろう。 彼らは自分が経験している苦痛や試練を隠し、それで誰も彼らがどれほど苦しんでいるかを分かれない。 そのような環境では疎外がいっぱいになる。 困難と戦っている人が表に出れば、困難がないような人たちに無視されるのが常だ。 実際、そんな無視をする人たちも同じ戦いをしていながらも、隠しているので人々が知ることができない状況に過ぎない。」

「私はもう教会に見た目に格好いい姿をするのをやめてほしい。 むしろ兄弟愛を持って互いに世話をし、誰かが傷を持っている時、誰も除け者にされないことを願っている。 あなたたちみんなにもう一度言う。 あなたの兄弟姉妹の世話をする者になってほしい。 他人を高める方法を探し、彼らの日々がより明るくなる方法を考えてほしい。 これが教会共同体のすべてだ。 愛と忍耐と憐れみにおいて育っていくのだ。 私のこの願いについて真剣に考えてくれないか。 あなたたちがもっと率直になって近づきやすい人になってくれるか。 そんなに素直になって透明になることが、あなたたちの兄弟姉妹にとても優しくすることだと思ってくれるだろうか。」

「私は本当にあなたたちについてくるモデルを与えた。 私は弟子たちにも、そしてあなたたちにも、私が経験している困難について隠さなかった。 誰よりも私はそのような率直さと透明さで最前線に立っていた。 そうしたのはわざわざそうしたこともある。 あなたたちがあなたたちの周りの人たちとどのように関係を結ぶべきか、手本を示すためにそうしたのだ。」

皆さん、神様がこの話をする時、私は「The Chosen」というドラマのワンシーンを思い出しました。 イエス様が働きを終えて帰ってくる場面でしたが、弟子たちは皆キャンプファイヤーのように火の周りに座っていて、聖母様も彼らと一緒にいました。 弟子たちは話をしていましたが、聖母様はイエス様がその火の周りに歩いてくるのを見たのですが、とても疲れている様子でした。 あまりにも多くの人々を撫でて治してくださり、持っているものすべてを渡してくれて、まるでゾンビのようになって帰ってきていました。 聖母はその瞬間、駆けつけて主の足を洗ってくれましたが、弟子たちは何かを話し続けていましたが、ただ愚かな姿でした。 聖母は息子の必要を気づき、それで走って行き、主の世話をしました。

そして皆さん「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか?」と主がおっしゃいましたね。 私がそのように十字架にかかっていたら、そしてファリサイ派の人たちに神様が自分を捨てたことを知らせたくなかったでしょう。 むしろ、神様が私を救ってくれて、神様が私と共にいると思わせることを望んだはずです。 しかし、イエス様はそうしませんでした。 彼は自分の弱い部分を明らかにしました。 そしてゲッセマネ小山でも「この杯をわたしから取りのけてください」と神様に求める弱い姿も現れました。 それで私たちはこのような姿のために私たち自身をイエス様と照らして考えることができるようになります。 なぜならイエス様は人であり、また神だからです。 つまり、主は私たちが霊的な巨人のようにいつもハッピー、ハッピーで、何の問題もない存在になることを期待していません。

イエス様が続けておっしゃってくださいました。

「あなたたちがあなたたちの弱いところのせいで恥ずかしがらないでと、私の弱いところをあなたたちが確認できるように十分な機会をあなたたちに与えた。 本当にこのような透明な行動はわざとしたものだが、私が受けた試しを人々が見ながら知識と知恵において育つようにそのようなことを許したのだ。」

「小さな者たちよ、あなたたちに私が頼む。 本当にあなたたちは小さい。 あなたたちの小ささは尊いだけでなく、あなたたちの聖なることのために絶対に必要なものだ。 あなたたちだけでなく、あなたたちの周りの兄弟と姉妹たちが聖なることにおいて成長することにも絶対的に必要なのだ。 これが愛する共同体だ。 完璧な者たちによって運営されるところではなく、最も弱い者たちによって運営され、そこであなたたちを永遠の完全さに導く私の能力に対して希望を持つようになるのだ。」

アーメン。