281. 癒しの公式
癒しの公式
2015年10月2日
主は私たちを教え祝福してくださいます。私たちの人生に対する主の完全なる御旨を伝えるため、私たちと共におられるのです。
メッセージに入る前に、今夜主から私にお話しくださった内容をお伝えしたいと思います。
主はこう仰いました。
「私は私の小さく賤しい花嫁たちの手を通して、奇跡と不思議なことを行うであろう。」
何と美しい言葉でしょうか。
そして数日間にわたり、主は癒しについてのメッセージを続けておられます。その2日前にすでに3件の癒しの奇跡がありました。簡単な祈りをするだけで、自然に癒しが起きたという報告が複数ありました。皆さんもこの教えが癒しのすべての神秘を明らかにするため、この教えを気に入るでしょう。主は、人々が癒しの賜物を何か神秘的なものにしてしまうことに、本当に疲れ果てておられました。癒しが起こるためには、その働きをする人が何か偉大な人でなければならず、特別なものを持っていなければならないかのように、受け取られています。主はそのような見栄や偽りを本当に引き裂かれました。
癒しに関する主の教えにあったコメントを読みながら、私も皆さんと同じ立場にあると伝えたいと思いました。この癒しの賜物を実践するために立ち上がることに、多少の震えや恐れを感じていたということです。同時に、私の内側では怒りが高まってきました。「サタンはこの癒しの働きに何をしたのか?癒しの働きはとても簡単なことなのに、どうしてこれほど複雑なものにし、ほとんどの人から遠ざけてしまったのか?そして実際、私はこれらの真実について今まであまり知らされていなかった。」そんな正義の怒りを感じました。
そこでイエス様がおっしゃり始められました。
「私の花嫁たちよ、あなたたちは本当に騙されていたのだ。癒しの賜物を持つ人々は特別で、癒しのために選ばれた人がいるという、間違った考えに惑わされていたのだ。そんな考えは全く事実ではない。初代教会でも、使徒の関与なしに、信者同士で癒しは頻繁に起きていた。私の霊は、私を信じる私の民と共にあり、非常に豊かに彼らを満たしていたので、死に至る脅威にさえ立ち向かえたのだ。当時は今日よりはるかに愛の徳が豊かにあった。」
「癒しの奇跡が起こるためには、何か霊的な熱い体験がなければならないとか、非常に特別な霊的賜物を持っていなければならないという考え方は間違っている。そういった考えはすべて、ハリウッドが生み出した社会の堕落した一部なのだ。そこではショーマンシップ、華やかさ、名誉がその働き人にモデル化されている。これは堕落したキリスト教の一形態なのだ。」
「クレア、それに関連してあなたの経験を話してくれないか。」
ええと、これらすべてがどう結びついているのか分かりませんが、主に話すよう言われましたので話します。私はフェニックスにある教会に通っていました。回心直後で、多分28年ほど前でしょうか。癒しの働きで有名な人物が、私たちの教会で説教するために、フェニックスを訪れました。私たちは空港で出迎えました。牧師から出迎えに行くよう頼まれたのです。その人は当時800人ほどの教会で働いていました。そのとき本当に驚きました。劇的なことがたくさん起こっていたからです。ヒステリックと呼びたくなるほどでしたが、しかし全くそういうわけではありませんでした。私の後ろにいた人の片目が、以前は失明していたのに癒されたのですが、その人は自分が癒されたと主張したり、主が自分のためになさったことを教壇で語りたがったりしなかったので、私はその癒しが本物だと分かりました。私はその人を何度も説得して、教壇に立って話をするよう促しましたが、最後の最後になってようやく彼女はそうしました。しかし、私は彼女が人々の前で自分の癒しを語ることに抵抗していたことから、彼女が偽りではないと分かったのです。
しかしその働き人の姿は、イエス様が癒しを行われたときの姿とは少し違っていたように思えます。同じように癒しはありましたが、あれほど劇的ではなかったようです。山上の垂訓があった山でも、半身不随の人が癒されたときのシモン・ペテロの説教のようには見えませんでした。それが私を悩ませました。15年後、偶然にもロサンゼルスでその働き人のショーの収録に招待されました。その働き人と私たちは、私たちが荒れ野に住んでいたときの生活や、歩んできた信仰の道のりについて分かち合う機会がありました。
しかし私はその人のために祈る必要がありました。私は彼のために取りなし祈りに入りましたが、祈りはすぐに悲しみに満たされていくのを感じました。胸がつまり、深い悲しみに私は打ちひしがれました。それは、その人が癒しの賜物を持ちながら、王のように生きていたからでした。彼は海外に行き、そのように癒しの賜物を持つ自分自身をアピールしていました。主は私に、彼が人々に、癒しの賜物はお金と同じだと教えていると言われました。裕福なクリスチャンになりたければ、癒しの働きをすればよいと教えていたそうです。このように歪んだ信仰を目の当たりにし、私に経験させられた嫌悪感の程は、本当に言い表せません。
この問題はすべて彼一人の責任ではありませんでした。彼は良い人でしたが、お金があったので、そのように生きていたのです。しかし問題は、そのような生き方が第三世界の国々では、大変堕落した見本となってしまうということです。物質主義と強欲が野心的なクリスチャンを捕らえ、人生の方向性を完全に歪めてしまう、門戸を開いてしまったのです。私たちはマモンとも神とも、両方に仕えることはできず、選ばなければならないことは知っています。
そのとき主がおっしゃいました。「これが既存の方式であった。このような理由から、一人を中心とした復興の計画は私にはない。そのようなイベントで起こる堕落は際限がない。信者が集まることは素晴らしいことだが、同時に罪の機会ともなる。これは私への賛美と、その中で信者が味わう癒しの集まりになるよりも、PRイベントになってしまうのだ。今実際に起きている復興の形は隠れたものだ。家族や小さなグループ単位で一人一人、一つ一つから始まり、ISISの手により言い表せぬ恐怖を経験した人々に手を差し伸べるのだ。金持ちや有名人を崇拝することに慣れた場所で、もはやスーパースター的な伝道者は存在しないだろう。」
「私の民よ、本題に入ろう。癒しの賜物は望む者ならば誰でも受けられる。私は誰からも除外しない。あなたがたがこの賜物を本当に欲するのであれば、賜物を得るまで私を求め続けるだろう。もちろん与えるかどうかは私の選択だが、あなたがたの現状で、この賜物を持つと危険になる場合を除き、私はあなたがたにこの賜物を与えることを拒まない。癒しの賜物が現れないときは、単にその賜物が遅れているか、まだ働いていないだけで、そこには良い理由があるのだ。」
「私の花嫁たちよ、この賜り物はあなたたちのために用意されている。私はあなたたちの内に住んでいる。私の霊はあなたたちと共にあり、私の父もあなたたちの内に住まれている。」
ヨハネの福音書14章23節。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。」
マルコの福音書16章16~18節。
信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。
「私は、油を注がれた者だけがと言ってなかった。ただ働きをしている者だけがと言ったわけでもない。あなたたちが信じるなら、こういったしるしがあなたたちに従うだろうと言ったのだ。英雄崇拝や、呼ばれた魂だけが私の名において癒しを行えるという、誤った概念を捨てるがよい。この世には病む者が多すぎる。私は彼らにさらなる重荷をかけたくない。競技場や大規模な集会、コンベンションセンターに行き、そのあらゆる騒々しさ、旅費、宿泊費などの重荷を彼らにかけたくない。」
「私は私の国を、スーパーヒーローたちの上に築いたのではない。あなたたちのような、普通の日常の男女の上に築いた。唯一の違いは、ある人は私を探し、ある人は私を見つけるまで私を探すということだ。」
マタイの福音書7章7節。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
「しかし残念ながら、多くの者が善を行っているうちに疲れ果て、道端に伏し、自分には賜り物がないと言い訳し、諦めてしまう。しかしその賜り物はあなたたちにまだある。ただ火をつけるだけでよい。私が望む方法でそうするだけでよい。これが私が言おうとしていることだ。あなたたちには華やかな催しや拍手喝采は必要ない。癒しの働きをするとき、あなたたちには大げさな言葉や祈りは要らない。何の気取りも必要ない。必要なのは病んだ一人と、信じる一人、それがすなわち奇跡なのだ。」
ここで主は再び聖書の言葉を引用されました。「つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです。」使徒言行錄10章38節。
「覚えていてほしい。1人の病人 + 1人の信じる者 = 1つの奇跡。これが私が与える癒しの公式だ。癒しが起こるために必要なものはこれだけだ。」
「これ以上に簡単で明確なものがあろうか?もう少し詳しく見ていこう。1人の病人。私は信仰のある病人と言っていない。なぜなら、私はあなたたちを信じない者のところに送り、あなたたちが彼らを癒し、それを見て彼らが私を信じるようにするためだ。」
さらに主は聖書を引用されました。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。」ヨハネの福音書2章23節。
「時として、祈る者の信仰が私の慈しみを天から引き寄せることがある。そこにあなたたちがいて、あなたたちは神の存在の象徴として立っている。状況によっては、私の慈しみを思い起こさせるため、導かれる思いを感じるだろう。どの場合でも、私の霊があなたたちと共にあり、あなたたちを導くであろう。あなたたちの思考が世のものから離れ、私に合わせられることがなんと大切なのか、それがここに示されている。あなたたちが私から受け取るものが多ければ多いほど、あなたたちは容易く導かれるだろう。しかし、あなたたちの心に世の混乱が満ちていれば、私の声は聞こえなくなるだろう。だからこそ、静けさと、私の声に耳を傾ける準備が大切なのだ。」
「そういうことで、信仰があるかないかに関わらず、1人の病人がいる。次に、1人の信仰を持つ者がいる。あなたたちは私が誰であるかを知っており、私があなたたちの内に住んでいることを知っている。そして私が慈しみ深いこと、私があなたたちを人々のところに送り、祈りと癒しをなさしめていることをあなたたちは知っている。この事実があなたたちに、人々のもとに進み、私が誰であるかを知らせる勇気を与えるであろう。」
「あなたたちも知っているとおり、これはあなたたちのことではなく、私のことなのだ。愛する人々よ、お願いがある。もしあなたたちが私を愛するのであれば、人々が私を知ることができるようにしてほしい。価値のない言葉ではなく、慈しみに満ちた行いによってだ。」
「今、私はあなたたちの中のある者がこう言うのが聞こえる。『ご覧なさい!この女性に悪霊がこんなことをしている。言葉を使うなと言っているではないか!』あなたたちのその言葉に、私は笑うしかない。本当に驚くべきことだ。私が言おうとしていることはこうだ。誰もが私について語ることができ、実際多くの者が私について語ってきた。しかし、どれほどの者が私の力を示したであろうか?」
「パウロは言葉と力について語らなかったか?『そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、힂�힂�力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。』」
コリント人への手紙第一 2章3~5節。
ここで一旦立ち止まって考えてみましょう。ああ、皆さん!パウロが弱さと恐れ、震えの中で説教に来たということを思い浮かべてみてください。私たちもパウロと同じように、弱さと恐れの中で働きをすることがあるではありませんか?なんと驚くべきことでしょう。使徒たちの王子と言えるパウロさえ、私たちと変わらないということを明らかにしているのです。彼も恐れの中を進んだのです。このことが私たちに勇気を与えるべきです。なぜなら、私たちには良き仲間がいるからです!
そしてイエス様はこう続けられました。「パウロの恐れがあなたたちに良い教訓となることを望む。あなたたちも人間的な恐れ、肉の恐れを打ち破ることができる。あなたたちのうちでどれくらいの者が、私のために石を投げられたか?血を流すほどの苦しみを受けたか?少し嘲笑されたのがそんなに大きなことか?その魂の永遠が、自分の体面を失うことよりも大切なのだという点を、心に留めなければならない。しかも、私はすぐさま立ち返って、あなたたちの中で奇跡を行うこともできる。あなたたちに大騒ぎや太鼓の音で盛り上がる必要はない。大きな声で祈る必要もない。ただ、私があの人に慈しみを注ぐことを願う、目に見えない心の意図があればよいのだ。」
「つまり、祈りさえあればよい、ということだ。」
「私の母は私に言った。『わが子よ、ぶどう酒がない。』あなたたちは心の中で私を見つめ、『主よ、この魂は苦しんでいます』とただ言えばよい。私がそんな暗示を理解できないと思うのか?それとも、私が信仰に満ちた雰囲気を作り出さねばならないと思うのか?」
「信仰に満ちた雰囲気は素晴らしいことだが、ほとんどの場合、あなたたちは日々、私の力を現す機会に晒されるであろう。そして、あなたたちの傍らにいる人を癒す機会に出くわすであろう。」
「では次に、奇跡について話そう。奇跡はどのように現れるのか?ただ起こるのだ、1+2=3のように。ある瞬間には人は病んでいたり痛みを感じていたが、次の瞬間にはその痛みが消えてしまう。稲妻が走ることも、太鼓が鳴ることも、マイクを通して発表することもない。その人はただ癒されるのだ。ある場合には、その人がまだ痛みを感じている状態で、あなたたちが立ち去らねばならないが、翌日には完全に癒されているかもしれない。そのような癒しは極めて繊細な過程を経て起こる。」
「分かるだろうか?サタンの影響を受けて、人々はどれほど私が意図した癒しの奇跡を複雑化させてきたかを分かるだろうか。癒しに関する教えにはまだ多くの部分が残されているが、ひとまずここで止め、あなたたちに非常に小さなことから始めさせたい。あなたたちの母が頭痛を感じているのであれば、母に祈ってもよいか尋ねてみなさい。『イエス様がどうされるか見守りましょう。」手を母の頭に置き、私に簡単にお願いするのだ。『どうか、母の痛みを取り除いてください。』しばらくあなたたちの注意をそこに向け続けるがよい。何も言う必要はない。私はあなたたちの心と思いをよく聞くことができる。しばらくの間、あなたたちの思いと心をそこに向けた後、彼女を私に委ねてほしい。もし彼女が直ちに癒しを感じ取れなかった場合、15分後にどう感じているか尋ねてみよ。もし少しは良くなったと言えば、再び手を置きなさい。そうするのを恥じる必要は全くない。私があなたたちに手本を示さなかったか?」
マルコの福音書8章22~25節。一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて來て、触れていただきたいと願った。
イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。
すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」
「私の花嫁たちよ、あなたたちは本当に私の心にかなった者たちだ。数か月の間にあなたたちがどれほど成長したかを見て、私は本当に喜んでいる。そして、あなたたちを天国に連れて行く直前には、あなたたちはさらに成長しているだろう。」
「引き続き子供のように私の言葉に耳を傾けてほしい。敵は嘘をつき、私の名において癒すことが複雑に見え、あなたたちの理解を越えたものと思わせようとするだろう。しかしそんなことに惑わされてはならない。敵が撒く混乱に巻き込まれてはならない。私はあなたたちに癒しの賜り物を極めて簡単なものとして与えしている。」
「癒しに必要なものは3つだけであることを覚えていてほしい。1人の病人 + 1人の信者 = 1つの奇跡。」
「1人の病人 + 1人の信者 = 1つの奇跡。それだけだ。この言葉をあなたたちの心に留めておき、次に私のために誰かに触れる機会があれば、この公式を思い出すがよい。」