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292. あなたたちの賜物に水をあげなさい

あなたたちの賜物に水をあげなさい

2015年10月16日

主の力と勇気が皆さんと共にありますように。

今夜、主は私たちに再び、癒しの賜物について教えてくださいました。私たちが受けた賜物を使い、信仰の種と主から与えられた賜物の種に水をあげるようにと言われました。主の御言葉を伝えます。

「私はあなたたち一人一人に、賜物の種を植えておいた。私の体である教会のために使え、まだ私を知らない人々のためにも使えと植えたのだ。」

「私の子供たちよ、この賜物が実を結ぶ前に、サタンがその手下を送って盗まれないよう、この賜物を大切に見守り、優しく世話をしなければならない。数日前、私はあなたたちに癒しの賜物についての新しい教えを与えた。誰も誤解できないほど単純に説明した。癒しに必要なのは、病人と信仰を持つ者、そして奇跡だけだ。必要ならば、こんな方程式を立てることもできる。病人プラス信仰を働かせる者は奇跡となる。あなたたちがこの賜物を育て続けることを望む。なぜなら、私は癒しの奇跡を用いて、信じない者を私のもとに連れてくるからだ。」

余談ですが、あなたたちも知っているとおり、言葉はただの言葉に過ぎません。誰でも良い話ができます。しかし、パウロが言ったように、私たちは人々が感じられるような神の力、神の手で人々に近づくのです。この神の力は言葉で表せるものではありません。ですから、私はパウロの言うことに本当によく共感できます。

「信じる者たちには、しるしと奇跡が伴うようになるだろう。救いと、癒しと、理解と、突破などが、あなたたち、つまり私の子供たち、私の花嫁たちに伴うようになるだろう。だからこそ、私はこの賜物を与えたのだ。これからその賜物を大切にするのか放置するのか、敵に盗まれるのかどうかはあなたたち次第だ。賜物を放置したり、敵に盗まれるようにしていれば、この賜物を受ける前のように、ただの無防備な者に終わってしまう。」

「どうか良いことをすることに疲れないでほしい。どうかあなたたちの信仰が後ずさりしないように。あなたたちも知っているとおり、この賜物が成長するためには、賜物を度々使わなければならない。不信の雑草がこの贈り物の周りに生い茂らないよう、世話をしなければならない。あなたたちは畑に蒔かれた種の譬えを知っている。ある種は茨の中に落ち、この世の心配事がその種の周りで育ち、その種を窒息させてしまった。今、あなたたちはこの譬えを理解しなければならない。悪魔たちが欲望や、忙しさを扇動し、あなたたちの焦点を霊的なものから肉体的なものへと振り向けさせようと、誘惑するときが近づいているのだ。」

「このような誘惑に打ち勝ち、あなたたちの内側の信仰の種が成長するのを見るためには、受けた賜物をより頻繁に使わなければならない。贈り物を使うのにより多くの時間を投資し、すべての機会を逃さず、信仰を持って前に進まなければならない。恥ずかしがってはいけない。たとえあなたたちが霊的な油注ぎを感情的に感じ取れなかったとしても、従順であること自体が、私の慈悲と恵みを引き出すことになるのだ。これも私の時なのであり、私はいつもあなたたちと共にいる。私はあなたたちに人々を送っているのであり、彼らのために祈ってほしいから送っているのだ。注意深く彼らを見つけ、対応するように。あなたたちが買い物に行ったり、何か行くときでさえ、敵はあなたたちの気をそらせようとするかもしれない。人々のために祈る機会を掴むことを恥じてはいけない。また、5歳児でも簡単に実践できる、癒しの賜物の簡単な公式を覚えておいてほしい。そして今は、子供たちがあなたたちや人々のために祈ることで、より一層油注がれる時代に入っているのだ。」

「こう尋ねることを勧める。『あなたは、イエス様が病気を癒すことができると信じますか?』『イエス様が私の中に住んでおられると信じますか?』『イエス様が私を通して、あなたを癒すことができると信じますか?』これ以上簡単なことはない。これは秘められた癒しの賜物を簡単に表に出し、簡単に実践に移すことができる方法だ。見せかけでもなく、ただ愛と信仰を行動に表すだけなのだ。」

これに関連して付け加えますと、私に起きた簡単な出来事を共有したいと思います。私がいるこの場所には、小さなプロジェクトを進めていたボランティアの方がいて、膝を痛めてしまいました。整形外科医を訪ね、医師はMRIを撮るように言われました。その方はボランティアの仕事を終えるために必死でした。本当に気の毒でした。当時私はメールに返信したり活動をしていたんですが、その作業を止めてその方のために祈りたくなりました。(私がいかに弱い存在かおわかりでしょう)。癒しの祈りについての思いが2度も私を打ちました。そして、他人には教えながら自分はしないような偽善者にならないよう、主から言われた言葉が思い出されました。

そこで作業を止め、そのボランティアの方に「あなたのために祈っても良いでしょうか?」と尋ねました。するとその方は「はい、はい、お願いします」と言われました。そこで私はこの簡単な癒しの公式を使って尋ねました。「イエス様が病気を癒すことができると信じますか?」するとその方は「はい」と答えました。「イエス様が私の中に住んでおられると信じますか?」するとその方は「はい」と答えました。そして私は「その方が私を通してあなたに手を伸ばし、あなたに触れて癒してくださると思いますか?」と尋ねました。すると「はい」と答えました。そこで一緒に座り、私は静かに祈りました。何も言わずに、主の憐れみと癒しの力が、あの方に私の手を通して触れてくださるよう祈りました。すると突然その方が「痛みが取れました、痛みが取れました!」と言われました。本当に神の愛がその方に証しされたのです。「ご覧になりましたか?神様はあなたを愛しておられます。神様はあなたを見守っておられます。神様は本当にあなたと共にいてくださいます。」そのとき、その方の顔が明るくなりました。ですから私も教えていることを実践しなければならない一例になりました。しかし、これは全く予期していなかった出来事の一例に過ぎません。私は癒しの奉仕について全く準備ができていなかったのですから。聖書に「時を得るかどうかを問わず、常に努力せよ」と書かれているとおりですが。要するに、この癒しは主が私たちに求めておられるようです。

「筋肉を使わなければ弱くなり衰えていくものだ。ほとんどのクリスチャンがキリスト教に回心した後に経験することがこれだ。最初はみな燃えるように、私のために何かをしようと、外に向かって歩み出す。癒しの賜物さえその時は働く。しかし、時間が経つと、そのおもちゃを置いて別のものを探すようになる。」

「ああ、私もそうでした、主よ。」

「そうだ。しかし、あなたは落胆を経験した。その教会の指導者たちは人々を育てず、むしろ追い払おうとしていた。だから多くの教会が空になってしまうのだ。人々は燃えているのに、自分の上に水をかぶってしまい、疲れ果ててしまうのだ。教会の指導者たちがそうするのはなぜか分かるだろうか?彼らは恐れているのだ。状況がコントロール不能になるのを恐れているのだ。確かにそうなるかもしれない。しかし熟練した牧者なら、何匹かの羊が外れても、年老いた羊が子羊を押しのけても、迷う羊をもう一度元の場所に戻すことができる。」

「これは私が与える賜物が教会でどう扱われているかの良い例である。本当に悲しいことだ。私は人々を送り、祈らせ、癒しが起こるようにするが、次にその油注がれた人が誰かに止められてしまう。自分の信じていることを守ろうとし、自分の領域を守ろうとする意図から、その油注がれた奉仕を止めてしまうのだ。そうすると、その教会の病人たちはゆっくりと衰弱していき、癒しを阻んだ者たちの前で死んでいくのだ。」

「ここで私は誇張していない。ただ事実を言っているだけだ。だから多くの人々がこのような教会を離れてしまうのであり、それが主な理由の一つなのだ。しかし、私の花嫁たちよ、あなたたちにもこの責任の一端がある。あなたたちはこの賜物、この弱い植物を世話し、成長できるよう育てていかなければならない。すべての機会に、すべての場所で、この癒しの賜物を育てていかなければならない。怠惰になったり疲れてしまい、人々に触れる機会を見逃してはいけない。癒しの祈りが最初は成功しなくても、信仰を持ち続けて祈り、またさらに祈るのだ。あなたたちには失うものは何もなく、かえって彼らに対して見せた関心と世話は多くのものを得られる。少なくとも、あなたたちが作業を止めて、彼らに気を使ってくれたということだけでも、彼らは感動するはずだ。」

「この癒しの賜物は小羊らを呼ぶやさしい方法なのだ。あなたたちは人々に聖書を強要するのではなく、私の手で人々に触れるのだ。人々が私に愛されていると感じられるよう、あなたたちが小さな機会を与えてくれるのだ。あなたたちが人々のために祈るとき、私は彼らにも何かを与える。彼らも種を受け取る。彼らも刺激を受け、愛らしい印象が残るのだ。」

「霊の世界では多くのことが起こっていて、あなたたちには意識されない、非常に多くのことが起きている。神の愛を受けるということについて、概念も期待もなかった魂たちに、真の望みが芽生え始める。彼らは自分への私の関心を感じ取る。あまりにも多くの者が、自分は神に捨てられていると考えたり、自分は神の愛を受けるに値しない者だと考えている。そういった者たちのところへあなたたちが行って癒しの祈りを捧げることは、決して神の愛から切り離されてはいないということを伝える機会となる。そのような考えは、むしろ敵が示唆しているのだ。敵は人々に罪を責められ、絶望し、捨てられたと感じさせようとするのだ。」

「癒しの祈りをする前やした後に、ある人々にはこう言う必要がある。『主がこのような状況を計らってくださいました。主はあなたを愛しておられます。主があなたがどれほど愛されているかを、知ってほしいと望んでおられます。主はあなたの過去は気にされません。主はあなたの未来について考えておられます。あなたが悔い改める心で主を見上げれば、主はすぐに許し、その胸に抱き締め、もはや罪を犯さないよう力を与えてくださいます。この事実以外のことを信じ込まされようとするのは、嘘つきの父である悪魔の言うことにすぎません。聖書が悪魔を昼夜兄弟を訴える者と言ったのは、けっして空言ではありません』。」

「ここで述べた簡単なガイドラインは全て、一人の魂が癒しの奇跡に心を開き、私が彼らを見捨てていないことを悟り、私のもとに来て赦しを求め、私と友人のように交わり、生きていけるようにするためのものだ。あなたたちが生きていく中で人に出会ったら、こう尋ねてみてほしい。『あなたは神について何と思っていますか?』そして『神があなたについてどう思っていると考えますか?』昔から自分は捨てられていると感じてきた魂や、もう私と友情的な関係を持つことはできないと思い込んでいた魂が、このような言葉を聞けば、その魂の救いと回復につながる対話が生まれるだろう。これは議論の余地のない完璧なアプローチであり、同時に相手を脅かすこともまったくない。」

「だから要点は、あなたたちが受けた賜物に水をあげ、それが成長するよう励まし、他人にもその賜物を使うことだ。一日の間にも、私をもっと深く知るべきだった人を、あなたたちがそのまま通り過ぎてしまったことがどれほどあるか。もしあなたたちがそれを知れば、驚くはずだ。」

「私の子供たち、私の花嫁たちよ、あなたたちが人々に手を伸ばし触れるとき、私はあなたたちと共にいる。私はあなたたちを通して、彼らの心と体に触れるのだ。」

これが主のメッセージの終わりです。