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300. 和解の力

和解の力

2015年10月21日

Heartdwellersの皆様、主の平安と力があなたがたとともにありますように。

今夜、私は校正を受けましたが、主が私に思い起こさせてくださったことがあり、とてもうれしかったです。その内容を皆様と分かち合いたいと思います。それは和解に関する事です。主は、私たちがこの和解のダイナミクスを理解できるよう、私の話を分かち合いたいとおっしゃいました。

今夜、主のメッセージを待っている間に、私は可哀想なおばあちゃんレイが、前の部屋に滞在できるよう許可を求めた際、13年間連絡のなかった家主に許可を求めなかったことに関して、家主に謝らなければならないことに気づきました。最近家主が訪ねてきたのですが、レイが前の家にしたことを見て、ショックを受けたと思うと、深い悔い改めが私の心に響きました。 前の部屋だけでなく、台所や中間の部屋からも悪臭が漂っていました。

そこで私は謝罪の手紙を書いて、私たちができる限りのお手伝いをすることを約束しました。レイが滞在していた前の部屋と、ペットと一緒にいた全ての部屋の床を滑らかにし、ステインを塗り密封しました。壁も新しく塗装し、もはや悪臭が全く漏れ出ないようにしました。そして私は大家さんに許しを請いました。必要なことは全て済んだので、祈るしかないような状況になりました。このように許しを求める手紙を書いた後、私は大きな安堵感を感じました。

主が語り始められました。

「あまりに難しすぎて神ができないことがあろうか? 私にはないと思う。私が運命の主であり、心を創造する者ではないか。人の心が考える道と、それがどのように形成されるかを私が知らないというのか。わが子らよ、人は自分の道を計画する。」

このとき、私は聖書の御言葉が浮かびました。

「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する。」箴言19章21節。

「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる。」箴言16章9節。

多分これらの聖句は私が最も好きな聖句の一つだと思います。

「私は今もなお彼らの心の中で働いている。荒れ狂う波のような思いを静めて、平安と洞察力をもたらしている。怒りは思考を曇らせるが、謝罪することは当然のことだった。今やわたしは彼らの人生で私の目的を果たせるようになった。」

「正義が勝利するためには、心が私の前で清められていなければならない。わが民よ、すべての人と和解するように願う。常に正義と聖なることを追い求めるように願う。失敗した部分があれば告白し、許しを求めるように。時には一言の言葉が荒れ狂う波を鎮めることができる。罪を認め告白すれば、癒しの道が開かれる。今や私は私の計画に従って進むことができ、すべてが私の導きに従うだろう。」

「わが子供たちよ、自分の過ちを告白することの大きな浄化の力を、決して過小評価してはならない。間違いや失敗を明確に認めれば、胸に沁みる多くの恨みを完全に回避できただろうし、回避できたはずだ。最近の人々の傾向は、自分の弱点を隠し、何も間違ったことがないかのように前に進むことだ。それは人々の心に消えない痛ましい傷と怒りを残す。そこから苦しみが始まり、人生はいよいよ悪化していく。私の心と思いにおいて、兄弟愛と和解が最も重要である。人々が苦しみを掴んでいれば、人生は歪み、間違った方向に流れ去ってしまう。」

「たぶん20年ほど経てば、この事実に気づくだろうが、それでは遅すぎる。私は現在の神であり、完璧な計画を持つ神である。私があなた方一人一人のために積み重ねてきたものは、あなた方の協力と、清らかな心と手なくしては、得ることはできないものなのだ。」

「子供たちは非難するが、大人は受け入れるものだ。あなた方の人生を振り返ってみてほしい。あなた方が正しいと考えて行動したことで、誰かを怒りに包ませたことはあるだろうか?さらに深く見つめ直しても、自分の過ちを見つけられなかったことはないだろうか? 隠し立てしてきたことはないだろうか? それとも、謙虚に告白し、許しを乞っているか?」

「許すことは、関係する全ての当事者を癒し、平安を取り戻させる。いつも、いつも、兄弟の利益のためにものを処理してほしい。自分を脇に置いて、他者の益を求めてほしい。そうすれば、私が報いてやるではないか? そう、はっきりと言うが、あなた方が犠牲を払いながらも、他人を高めるために生きるなら、あなた方は天の摂理の窓を開き、私があなた方のために積み重ねてきたものが、まさにあなた方の膝元に降り注ぐようになるのだ。」

「これはほとんど気づかれていない秘密である。私は何らかの方法で受けるために与えるのは許さない。それは徳のない行為である。原則は通用するかもしれないが、報いは天国ではなく、この地上にのみ存在するだろう。しかし、兄弟愛の善良な心で犠牲的に与えれば、この地上と天国の両方で報いを受けることになるだろう。」

「しがみつき獲得するのが日常となっているこの世で、徳がいかに人生に持続的な影響を与えるかを、人々は見過ごしてしまう。徳を富と世俗的な利益に置くなら、死の時には、すべてが非難と虚無に飲み込まれてしまうだろう。天国には正直な徳、兄弟愛、他者のための犠牲以外は何も持っていけない。しかし、それさえも期待してはいけない。」

「この概念があなた方に馴染みがないなら、あなた方の心にそれを植え付けるよう、私に求めてほしい。あなた方の心を変え、自分を私の真の弟子であり愛の使者にしてほしいと、私に求めてほしい。愛が足りないからこそ、行動が足りないのだ。これが祈りによって私と親密な時を過ごすことが、一日の中で最も重要な活動となる理由なのだ。世の中に生きていて、世の中を優先するなら、世俗的な実を結ぶだけだろう。」

「聖霊の内に生き、私を優先するなら、肉の欲を満たしながら生きることはなく、自分だけでなく周りの人々にも永遠の命に至る、聖なる実を結ぶだろう。これがキリスト者になるということを意味する。これが世の中における私の存在となることを意味する。これは意志の弱い者や臆病者にはできることではない。だからこそ、私が恐れる者、つまり臆病者は天国に入れないと言ったのには理由があったのだ。決断を下すように迫られたとき、臆病者は常に自分にとって有利で安全だと思うものを選ぶだろう。しかし、私を告白し、徳に従って生き、正しいことをするには、魂が勇敢でなければならない。」

「柔弱な心を持つあなた方すべて、私のもとに来なさい。私があなた方を強く、断固とした者、犠牲を払ってでも正しい道に献身できる者にしてあげよう。他者のために自分を犠牲にさせるのは、あなた方の心の中にある私の愛があるからだ。あなた方の心の中にある私の愛は、あなた方と私との親密な関係のために捧げる敬虔な時間がなければ、存在しなくなるだろう。だから、私のもとに来なさい。自分の弱さを告白することを恐れるな。力を求めに来なさい。私がまた、あなた方に知恵を約束していないだろうか? 私は惜しみなく与え、責めることなく与えよう。私のもとに来なさい。」

「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます。」 (ヤコブの手紙 1章5節)