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319. イエスの愛を込めて

イエスの愛を込めて

2015年11月24日

主の祝福が皆さんと共にあることを祈ります。主は本当に私たちと共におられます。今日、主は与えることに対するガイドを、与えてくださいました。 私は主に向かってこう尋ねました。

「主よ、今日は何についてお話ししたいですか?」

「私はみなしごと、やもめを守る。私の倉庫を開き、彼らに私の祝福の豊かさを注ぎ込む。今は多くの人が欠乏の中で生きている時代だが、一方では贅沢に浸っている人もいる。」

この時、私はヤコブ書の御言葉を思い出しました。「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です。」ヤコブの手紙1章27節。

「私の花嫁たちよ、この週とこの季節に、困っている人を探してほしい。今は貧しく、孤独な人々の中に深い憂鬱がある。あなたたちを通して、私は私の愛を伝えたい。 ある者は一週間中、晩餐のように食事をする人もいるが、あなたたちの周りには、わずかな夕食も食べられない人がたくさんいる。 つまり、隣人の苦難を無視せず、彼らの生活を批判したり、彼らの状況に否定的なことを言わないでほしい。」

私は少し付け加えたいのですが、私たち全員に、私たちが知っている人の中に、一人暮らしや離婚している人がいるはずです。 もしあなたが夕食を計画しているなら、彼らを招待するのも、良いアイデアだと思います。

「彼らの多くは幼い頃から虐待され、拒絶され、彼らが世間と交流する唯一の方法は、あらゆる欺瞞的な手段で、必要なものを手に入れることだった。 彼らは暖かい家族の概念や、愛と保護を経験することなく、飢え、孤独、周囲の人々の冷たさと敵意を払いのけ、自分自身を守るために戦わなければなりなかった。本当に悲しいことだ。子供たちがどのように扱われるかを見ると、私の心は本当に痛い。いくつかの問題は、何世代にもわたるアルコール、犯罪、麻薬が関わっている。彼らは生まれたときから、拒絶されることが多く、良い親に育てられたあなたたちに見られるような、正常な社会的人間関係の態度を持つこともできない。」

「もし私が、彼らの幼少期がどのようなものであったかを、あなたたちに見せたら、あなたたちは恐怖に震えるだろう。このような子供たちは、私の天使たちだけが世話をした。両親が彼らを家に置き去りにし、ドアを閉めて出て行ったり、ほとんどいつも家にいなかったり、居場所を求めて道のあちこちを転々とし、衣服や食べ物を探すために、あのゴミ箱からこのゴミ箱へと移動するような、生活を送っていたのだ。」

「私がこのような貧しい者たちをあなたの前に置くのは、あなたたちの慈悲のための練習だ。中産階級や、働く低所得層出身の人々の中には、すべてではないが、多くの人が、不幸な人々を助けなければならないという、慈悲の法を理解していない。」

この言葉、まさに私たちに当てはまる言葉です。私は母と一緒に育った経験があるのですが、私の母は、路上で生活したり、物乞いをしている非常に貧しい人々に対して、本当に厳しい方でした。とても、とても批判的で、「仕事を探せばいいじゃないか!」と言われました。 このような態度は、働く階層の人に、よく見られる姿です。

「世間で自分のための人生を追求して生きている人は、そのような貧しい人たちを見て、怠惰で失敗した人たちだと思い、自分や子供たちの面倒を見ない人たちだと思い、冷淡な心を持つようになる。そのような貧しい人々の多くは、幼少期の傷や怪我で、精神的に深刻なダメージを受け、様々な抑圧的な状況で、自分の力で正しく考えることができなくなり、成長するにつれて、あの仕事からこの仕事へ、あの犯罪からこの犯罪へと移り住み、生存に必要なものを手に入れながら、生きてきた場合が多い。」

「幸運な環境に生まれたあなたたちは、あなたたちの残されたもので、貧しい人々の重荷を背負わなければならない。その重荷を背負うために、あなたたちにそのような幸運な環境が与えられたのだ。その環境は、あなたたちの将来を考え、あなたたちの蔵を満たすためではなく、私に代わって貧しい人々の必要を満たすためだ。これを行うことによって、あなたたちは義の息子と娘になるのだ。貧しい人々は私の贈り物だ。私の贈り物、すなわち貧しい人々は、あなたたちが徳を養うのを助けるのだ。」

「初代教会は、常に彼らの中にいる、貧しい人々の世話をした。いつもそうだった。貧しい人々を助けることは、私の教会が最初から学んだことだ。あなたたちの中に貧しい人々がいるのなら、それは本当に私の贈り物であり、彼らを通して、あなたたちは私への忠誠と愛を証明するのだ。」

コリントの信徒への手紙二8章14〜15節。

「あなたがたの現在のゆとりが彼らの欠乏を補えば、いつか彼らのゆとりもあなたがたの欠乏を補うことになり、こうして釣り合いがとれるのです。多く集めた者も、余ることはなく、わずかしか集めなかった者も、不足することはなかった。」

「路上でこのような貧しい人々を通り過ぎる時、心に何かが響くこともなく、ポケットから千円札一枚も取り出さないなら、それは生ぬるい聖徒であり、病んだ教会の症状だ。生ぬるい聖徒と教会は、自分のビジネスと自分のアジェンダだけに忙しいので、貧しい人々は自分の豊かさを得るのに邪魔になり、不快感を与えると思う。」

「しかし、私の愛に感動したあなたたちは、判断しないように教育され、この利己的な世が反応するように、反応しないよう教育された。あなたたちは、階級的な境界を越えて、私の慈悲を示すために前進しなければならない。すべての善なるものの敵は、あなたたちからこの慈悲の責任を、取り除こうと努力してきた。敵はあなたたちの心を貧しい人々に対して固くし、また貧しい人々の心をあなたたちに対して固くした。私はこのようなことを望まなかった。私の願いは、あなたたちの残りが、貧しい人々の必要を満たすことであり、いつか彼らの残りが、他の人々の必要を満たすようにすることであったのである。しかし、サタンは意図的にこの機会をあなたたちから取り除き、この傷ついた魂に非難の矢を投げかけ、社会に敵意と分裂を引き起こし、お互いに不満と憎しみを助長させたのだ。」

この時点で、私はイザヤ書58章を調べてみようと思いました。 この聖書箇所には多くの約束が含まれています。公正な決定、保護、導き。私たちが古代の基礎を築き、壊れた壁を修復するという約束が、この中にあります。美しい約束なのです。

興味深いことに、このイザヤ書の御言葉は、私が生まれ変わったときにすぐに与えられました。 今、その理由が分かります。 私は宗教の精神に執着する傾向が強かったからです。 私は断食や祈りなどに執着し、人々に神聖に見えるような素晴らしい断食や祈り、御言葉のようなものを追求する傾向がありました。 少なくとも、初期に学んだことを思い出すと、そうだったようです。 そして、貧しい人々のことは気にしませんでした。 私がもっと関心を持っていたのは、私自身の信仰生活と神聖さでした。 回心した当時、私はまだ物質主義的なものを、追求する傾向が強かったのです。

今思えば、私がもっと集中していたのは、断食、知識の御言葉を受けること、ビジョンを受けること、賜物と癒しのようなものでした。 今思えば、このすべてが利己的な視点から出たものであって、主への愛から出たものではないと思います。 自分自身を良いクリスチャンとして、証明するための努力、様々な賜物の中で生きている姿を、証明したかったのだと思います。

そして覚えていることが一つあります。私が通っていた教会でセミナーがあったのですが、私たちは皆、アンケートに記入して提出すると、それぞれの賜物が何であるかを説明してくれるセミナーでした。 知恵、理解、慈悲、慈善など、様々なテーマの点数がありました。 しかし、私は慈悲の点数がとても低く、本当に驚きました。「うわー!私は憐れみの点数が低い、うーん、これは良くない!」 私のそばには、聴覚障害者のために手話通訳として、奉仕している親しい友人がいましたが、彼女は憐れみの点数がとても高かったので、私は本当に憐れみが足りないと思っていました!実は当時、私は憐れみの心について深く考えていませんでした。 なぜなら、当時は、主にとって本当に重要なことではなく、自分を人に証明すること、格好良く、見栄え良く、うまく話すことに気を配っていたからです。

ですから、このイザヤ書の御言葉は、私をその宗教の霊から離れ、主の心にもっとしっかりと立つことができるように、助けてくれる記念碑的な箇所です。 そして、主の声を聞き、主を見ようと努力する私たちにとっても、イザヤ書58章の約束は大切なものだと思います。

彼らが日々わたしを尋ね求め、わたしの道を知ろうと望むように。恵みの業を行い、神の裁きを捨てない民として、彼らがわたしの正しい裁きを尋ね、神に近くあることを望むように。

何故あなたはわたしたちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか。見よ、断食の日にお前たちはしたい事をし、お前たちのために勞する人々を追い使う。

見よ、お前たちは断食しながら争いといさかいを起こし、神に逆らって、こぶしを振るう。お前たちが今しているような断食によっては、お前たちの声が天で聞かれることはない。

そのようなものがわたしの選ぶ断食、苦行の日であろうか。葦のように頭を垂れ、粗布を敷き、灰をまくこと、それを、お前は断食と呼び、主に喜ばれる日と呼ぶのか。

わたしの選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて、虐げられた人を解放し、軛をことごとく折ること。

更に、飢えた人にあなたのパンを裂き与え、さまよう貧しい人を家に招き入れ、裸の人に会えば衣を着せかけ、同胞に助けを惜しまないこと。

そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。

あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、「わたしはここにいる」と言われる。軛を負わすこと、指をさすこと、呪いの言葉をはくことを、あなたの中から取り去るなら

飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる。

主は常にあなたを導き、焼けつく地であなたの渇きをいやし、骨に力を与えてくださる。あなたは潤された園、水の涸れない泉となる。

人々はあなたの古い廃虚を築き直し、あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び、「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。

イザヤ書58章2~12節。

この御言葉は本当に美しいです。 すでに多くの方が周りの人を助けるために、多くのことをしています。 そのような方は、この御言葉で自分を非難しないでほしいです。これは私がふと思いついたことであり、貧しい人々の世話をすることから来る祝福を、思い出させるための注意喚起に過ぎません。私たちは怯えた子犬のように考え、自分を悪く考える必要はありません。

私たちは主を愛し、貧しい者と共に生きている主を養い、衣服を着せたいと願う心を持って、進むべきであり、非難のくびきの下にあってはいけません。私たちの周りにいる、助けを必要としている人々のために、この季節をより特別な関心とケアの時間にしましょう。イエス様の御名によって行い、私たちに与えられたものに従って施し、特にこの御言葉のようにしましょう。

「イエスの愛を込めて」