366. 私の愛の香りを持って魂たちを私に導け
私の愛の香りを持って魂たちを私に導け
2015年4月30日
「主が、私に毎晩このように語りかけてくださることが、本当に奇跡のような恵みです。目に映るほどに、人々があなたの心へと流れ込んでいきます。イエス様の腕は広げられていて、彼らはイエス様の腕と心へと流れ込んでいきます。本当に奇跡のような恵みです。私ができることは泣くことだけです。彼らは主を本当に求めています。彼らは本当に主を愛しています。彼らは主なしでは生きられません。恵み深い救い主よ、あなたを求める人々へ、あなたの愛を注いでください。全ての障壁を打ち砕いて、彼らが決して離れることのない主の心に、居場所を見つけられるようにしてください。彼らの奥深くまで完全に浸透し、満ち溢れるほどに満たしてください。彼ら自身の場に、主がお住まいください。おお、主よ、私の祈りを聞いてくださり、この飢え渇いている者たちの上に、主の慈悲が降り注がれますように。」
「慈悲が彼らにあるだろうし、永遠の愛を彼らが持つだろう。私の同情は決して尽きたり、限界がないだろう。クレア、彼らが私について飢え渇いているように、私も彼らに対して飢え渇いている。彼らは私なしでは生きられない。そして私も、私が選んだ全ての人々が私の心の家に完全に到達するまでは、私自身も私の完全さに達することはできないだろう。」
「彼らの人生の美しい目的が完成することを通して、彼ら全員がここに存在することが成し遂げられるまでは、天国の完成は起こらないだろう。非常に低い者たちと謙虚な者たちを、私が極めて尊い者にするだろう。彼らが人生でどのような地位にいたかは、全く重要ではない。最も重要なことは、彼らがすべて私のものとなること、そして私の腕の中で永遠に安全にいるだろうということだ。おお、私が彼らをどれほど懐かしんでいることか!彼らを懐かしむ私の苦痛は、あたかも私が十字架の上で感じたことと同じだ。私はこれら全ての事柄の完成を渇望している。そうだ。『すべて成し遂げられた』と言った言葉は善かった。しかし今、私が死によって生かそうとした魂たち、彼らと共に成し遂げられる完成を見ることを、私はあまりにも渇望している。」
「定められた者たちが世のゴミのような場所でさまよいながら、決して掴むことのできない虚しいものを探し回るのを私が目にしたときに感じる、その深い苦痛をあなたたちですら想像することさえできないだろう。彼らは彼らの人生の中で何か重要なものを失ってしまったということを知ることになり、そして彼らが枕に頭をつけて泣きながら眠る時に、私がそこにいなければならない。彼らは宗教を追求したが、決して私を発見できなかった。あまりにも多くの私の子供たちが宗教に閉じ込められて、このような者たちを私へと連れてくる方法を知ることができないでいるので、私は涙を流している。彼らは教義を持っているが、愛を持っていない。実際、この愛がなければ、彼らは真に私に関しては何も持っていないのだ。」
「私の人生の最初から終わりは、人々に対する私の愛の長々とした説明なのだ。しかし今、宗教はルールと規則と法令と、しなければならないことと、してはならないことだ。だから私の小さな者たちが虚しさの中でさまよい、丘を登る途中で道に迷ってしまい、だから狼やライオンたちにあまりにも簡単に犠牲になっている。クレア、最初から私があなたを何で触れたのか?」
光のような鳩が私に降りてきた時、私が感じたのは無条件で圧倒的な愛であり、私が私の人生で行った事柄、すなわち罪に対する罪悪感を感じました。その知識が私の内へと降りてきた後に、主の愛が私の中に入ってきて、私を修復し、正しく作り直してくださいました。そして以前には決して想像することができなかった能力と深さと広さで、生き生きとした人生で満たされました。私は明白かつ確実に知り、また知りました。私は神様に出会い、そして主は私を愛してくれました。私は完全に新しい地平へと移され、新しい人生を生きるようになりました。それは私の人生の終着点だということを知るようになりました。はい、そうです。私はついに家に到着したということを知りました。
「これがまさに私が望む教会の姿だ。私の安全な腕に抱かれた家に帰ってくるのだ。そうだ。魂が私の愛に深く浸かる時に、学ぶべき授業がある。その授業で彼らが諦めることを学ぶのだが、それはあまりにも簡単なこととなる。確かに空になる。しかし、ごく少数の人々がその地点を発見する。私を受け入れる形式的な過程があった後、ルールブックが出てくる。真実を言うと、他のどの教派よりも良いと言うことができる教派は一つもない。皆が皆、神様の家族の意味を失ってしまった。その神様の家族の意味は、すなわち愛なのだが、その愛は私に関する全てを表現する。これを皆が失ってしまった。結局、私が彼らを私の心の中で私の愛によって生きてほしいと願っている、まさにその時に、魂たちはルールと規則で生きていく姿へと転落する。」
「これが今、あなたたちが失ってしまったものであり、失いながら生きてきたものだ。しかし、決して今後は失ってはならないのが、すなわち私の人々を私、すなわち愛へと連れてくることだ。愛は毎日の命令とならなければならない。全ての昼の時も、全ての夜の時も、そして人生の全ての瞬間の命令が、すなわち愛でなければならない。人が作り出したこの全ての、争いを引き起こすルールと規則と法令と規定と、書かれたものと題目を、私はもう廃棄しなければならない。私は全ての混乱と全ての紛争をきれいに一掃し、最初から始めなければならない。愛を土台とし、真理をレンガとし、慈悲とおおらかさをセメントとし、謙遜で屋根を覆って建物を建てていかなければならない。謙遜がなければ、真に真に何も立つことができないだろう。」
「私は私の子供たちにこれを理解してほしい。もしあなたたちがルールと規則と形式に集中するなら、あなたたちは私の前で不義を行うのだ。あなたたちは砕かれた石を孤独で救われていない者たちに与えるのと同じだ。彼らの人生に対する判断、批判、軽蔑、無視は、彼らが受けるべきものの中で最も最後にすべきものであり、それもそのヒントだけがわずかに示されるべきものだ。その代わりに手を差し伸べて捕らえ、愛すべきだ。理解し、耳を傾け、慰め、彼らが必要とするものを神様が持っているという静かな確信が得られるよう、優しく導かなければならない。同情と哀れみがあなたたちにあることを彼らに見せなければならない。どうか律法的なことを持ち出し、聖書の御言葉を暗唱するように話さないでほしい。その代わりに彼らを優しく導いて安全な場所へ導き、友達になり、模範を示して彼らを導いてほしい。私の花嫁たちよ、時間がごくわずかしか残っていない。人々は孤独で打ち砕かれ、罪によって苦しんでいる。彼らを最大限の配慮をもって扱ってほしい。」
エゼキエルはある場面を見たことがあります。イエス様と一緒に船で魚を捕っていました。そのボートには二人の別の人がいて、その人たちの側では水が汚染されていて、魚たちがプカプカと浮いていました。その人たちは魚を捕まえ、釣り上げ、船に投げ入れていました。イエス様は彼らに止まるように言いました。そして優しく船のへりに寄りかかり、優しく魚の下の水の中に手を入れ、注意深くゆっくりと引き上げました。イエス様は彼らを住みやすいきれいな水に放してくれました。イエス様が私の方を振り返りました。そしてその砕かれ傷ついた魂たちをこれ以上教会に連れてくることはできず、集めて教えることはできないと説明してくれました。その魂たちはその魚たちのように少しずつ傷つき、彼らは最後の息をしていました。その魂たちは命が危篤な状況にあり、だからこそ彼らを本当に優しく世話しなければならない状況でした。誰かが彼らと時間を持ち、彼らをまず回復させなければなりません。
「優しい愛の手を救われていない人に差し伸べ、そしてあなたたちの行動を通して彼らに私の本性について知らせてほしい。あなたたちが彼らに記憶される決定的な時が来るだろう。その時、私の香りが彼らに届き、彼らは救いを得るだろう。あなたたちができるうちに種をまいてほしい。収穫が目の前に来ている。私の香りを後に残してほしい。決定的な時にその香りが彼らの人生に決定的な要素として作用するだろう。」