414. 他人にもそうするようにあなたたち自身にも慈悲を施してほしい
他人にもそうするようにあなたたち自身にも慈悲を施してほしい
2015年11月28日
私たちの親愛なる主の慈悲と親切が、私たちと共にあります。今朝、私に起こったことについて分かち合いたいと思います。今朝、私はお祈りをするために、早く起きたのですが、その後の出来事を本当に信じられませんでした。一つまた一つと立て続けに思い浮かびながら、私の考えが主からたびたび逸れていったのです。私は昼の日の光が差し込む前に、主と共に静かに黙想する時間を持っていたのです!私はただ主と共にいるために起きたのですが、心がたびたびあちらこちらへと揺れ動いたのです。しまいには私の心は散漫になり、粉々に砕けてしまったのです。私の考えでは、二時間ほどそうだったと思います。
他の事柄が私の心に入り込んできたのです。例えば「ああ、このことをしなければならないのに」というようにです。そのあと、また別のことが思い浮かび、「ああ、もし私が今それをしなければ、後で必ず後悔することになるだろう!」と考えたのです。そして、また別のことを考えました。あるいはエゼキエルが何かを言及すると、私が即座にその話に飛びつく、といった具合だったのです。そのように私は今朝の祈りの時間に入ることができませんでした!ただ、あまりにも途方もない状況だったのです!
私は以前にこのようなことを経験したことがなく、当然、罪悪感を持ちました。主が私を待っていらしたのに、どうしてこれほどまでに気まぐれでふさわしくない考えをすることができたでしょうか。しかも、主が私を見つめていらっしゃるのを知っていながら、ですよ!私が祈りの時間に入ろうとする時、主は私に近づいて、私の心を完全に満たそうとされました。ですが、そのたびに私は、蓋を開けると飛び出すバネ仕掛けの人形のように忙しなく、私とは全く関係のないあれこれの事を考え始めたのです。
結局、私は祈りは恵みであるということに気づいたのです。そしてまさに今、私にはその恵みが必要だったのです。私には祈りの恵みが必要です!そしてついに、ついに私はお祈りできるようになりました。しばらく礼拝の後、主は私に語りたいと願われました。私は礼拝に留まろうと必死になっていました。簡単ではありませんでした。そして、ほぼ三時間後にようやく私は主にお話しできるようになりました。
それで、私は主にお話ししました。「ああ、主よ。本当に辛い日です。本当に辛い朝です。妨害があまりにもひどかったです。朝の6時半からずっとそうでした。私が静かに座っていられなかったことについて、本当にがっかりしました。主は私が主と共にいられるよう天国へ招いてくださったのに、まるで全てのことが主から私の精神が離れるように妨害したような感じです。主は私を招いて天国へ来させてくださったのに、私は気が散って主から一瞬で離れてしまいました。そして、私はそれらの事を許してしまったのです。私はなぜこれほどまでに考えが浅いのでしょうか?」
主が語り始められました。「あなたに今日、今朝起こったことを私の民に対する手本として考えるように望む。私があなたを呼べば、あなたが私に即座に従順なのは、どれほど驚くべきことか分からない!だが、状況があなたたちを苦しめ、あなたたちがここで完全に私と共にいる自由を盗む時もある。」
「その時、私があなたたちからそっぽを向かれ、失望した人のように立ち去るだろうか?いや、そうではない。これは人間のやり方だ。むしろ私はあなたたちを待ち、悪魔たちの咎めを退けることによって、あなたたちを助けようと努力する。あなたたちが即座に私に来なかったことによって、あなたたちに途方もない罪悪感を与えようと準備している悪魔たちの、その咎めを退けることをしているのだ。」
「そうだ。あなたたちが私に即座に来るならば、これは美しいことであり、同時にあなたと私双方にとって祝福だ。だが、あなたたちがすべき事柄や妨害によってそうできない時は、第一に、何よりも他の人々に対して忍耐してほしい。そしてあなたたちを妨害するような人々には、柔和で親切に接してほしい。第二に、これらの妨害によって怒らないでほしい。これは確かに何よりもあなたたちのおおらかさを試すことだ。」
「第三に、咎めのくびきを負わないでほしい。私はあなたたちの状況を見ていて、あなたたちを非難しない。咎めは逆効果をもたらすだけだ。これはただあなたたちをさらに後退させるだけだ。私は我慢強く待ち、私ができる場所であなたたちを助けるだろう。あなたたちが祈りの時間に戻る時、私はあなたたちに私の顔を少しずつ見せるだろう。再びあなたたちが私を呼ぶようにするためだ。私はあなたたちを支持することにおいて迅速だ。私の花嫁よ、言っておくが、私たちが真に共にある時が来るまで、私はあなたたちを離れないだろう。」
「私の愛する者たちよ、あなたたちの中には、自分が完璧にできなかった時、あまりにも簡単に自己嫌悪と咎めに陥る者が多い。例えば、あなたたちが遅れた時、あなたたちが散漫になったり、ある一線を越えた時、あなたたちは自分自身にあまりにも厳しすぎる。私の愛する者よ、そのようなものは少しも私たちを近づかせない。反対に、これはあなたたちが再び罪悪感に集中させるだけだ。そうすれば、私はあなたたちをどれほど愛しているかを確信させるために、他の方法を探さなければならない。」
まさにここに驚くべき部分があります。皆さん、主は私に続けてこの美しいレーマの御言葉を与えてくださっています。「来い、来て私の腕に抱かれろ!」そして、とても愛らしい他の美しい事柄を、ですよ!私は一人で思いました、「わあ、主は本当に忍耐強いに違いありません!主は私がそれほど気まぐれだったにもかかわらず、私を非難されませんでした。むしろ主は、私が主にもっとしがみついていたいと思うように、その美しい事柄を話してくださったのです。あなたは本当に私を驚かせます。主よ、あなたは本当に私を驚かせます。」
「これは私があなたをあまりにもよく知っているからだ。私は昨日あなたがすべきことを怠ったことを知っていて、罪悪感があなたの頭から離れないでいることも知っている。だが、あなたが休んだことによってあなたを咎めたのは私ではない。あなたは十分にそのような休息を楽しむに値する。」
私を許してください、皆さん。私は昨日、主の御言葉を聞きませんでした。
「私は、あなたのその御心を感じました。私は主の恵みが、私が普段しなければならないことから私を解放してくれたのを感じました。」
「そうだ。うん、あなたは弓が折れるまで弓を引くこともできるだろう。しかし、私はあなたが他の何よりもまず人々に憐れみを施すことを望む。そして、あなたが憐れみを施すためには、あなたは必ずあなた自身に対してまず慈悲深くなければならない。追い込まれてはならない。愛する心で全てを行ってほしい。あなたたちがその愛を感じられない時は、そのような視点で物事を行おうという、決心だけでも十分だということを知ってほしい。愛しようという決心を持って行ってほしい。その決心が必ずしも愛する感情を伴うわけではない。」
「このような心の態度は、あなた自身だけでなく、他の人々への悲痛な思い、裁き、そして批判から、あなたを守ってくれるだろう。落胆したり、絶望したりせず、その限界を認めることは、魂の真の成熟のしるしだ。あなたが持っている全てを与えてほしい、クレア。あなたはいつも十分だろう。なぜなら、あなたが終わったと考えるその時点で、私が満たすからだ。」
「あなたができないことを私が満たすだろう。」
(コリントの信徒への手紙二 12章9節) わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。
「あなたたちは成人になった後でも、あなたたちの親が依然としてあなたたちの肩越しにささやくのを聞いている。ある場合、これはあなたたちの記憶によるものだ。悪魔たちもあなたたちについてそのような記録を持っていることを知っているか。そうだ。彼らはあなたたちが聞いた言葉を正確に知っており、その咎めのボタンをどのように使うかを知っている。親の教育は、あなたたちの心の中に、途方もない心理的な重さをもたらす。親たちは、自分たちの言葉があなたたちにどのように適用され、あなたたちを形づくっていくかを、ほとんど知らずにいる。親たちが厳しく完璧主義的であるほど、彼らはあなたたちに、最も高いレベルの成果を期待する。そして、あなたたちが失敗する時、これはあなたの成人期、そしてさらに年老いてからの人生でも続く、サイクルを形成することになる。親たちはあなたたちに『あなたは失敗作だ。あなたは不十分だ。あなたは誰々より劣っている。』とよく言う。」
「ああ、私が親たちのこのような態度をどれほど嫌っていることか。このような態度は、子供たちの自立性と自信を破壊させ、彼らが絶えず自分の存在について他の人に確認しようと望み、不安定な人間として成長させる。あなたたちは私の視点から見て、自分たちがどれほど貴重な存在であるかを知らないのか。カルバリの十字架は、あなたたちのため私が支払った代償だ。そして、必要ならば、世が失敗作と呼ぶ魂、そして子孫たちにまで、絶えず完璧さを追求した親が失敗作だと断言したために失敗作となってしまった、たった一人の魂をさらに救うために、必要ならば私はカルバリでのそのことを再び、再び、また再び行うだろう。そのような形で子供を養育する残酷な方法は悲劇だ。ああ、本当に悲劇だ。」
「しかし、希望がある。あなたたちはそのような軛の下で育ったのか。あなたたちの生涯のうちに、自分たちの完璧ではないこと、親や溺愛されている兄弟姉妹に決して及ばないことを悟ったことがあるか。私がそれを癒すことができる。私の愛する者よ、私はあなたたちの悲しみを喜びに変えることができ、あなたたちの心の中にある、そのような汚名を取り除くことができる。私にしっかりとまとわりついてほしい、私の愛する者よ。私が金銀財宝とでもいうような、途方もないあなたたちの価値をあなたたちに示すだろう。そうだ、あなたたちは私の心臓から出た火花であり、あらゆる面で美しく豊かな存在であることを知らないのか。なぜか?なぜなら、あなたの中で始まったことを私が完全に成し遂げるからだ。私はあなたたちを私の父に捧げるだろう。完璧で、完全であり、きずのない存在としてだ。そうだ、私があなたたちのためにこのことをするだろう。あなたたちは自分の命を私に与え、私はあなたたちに私の約束を与えた。完璧さはあなたたちの運命だ。これだけでなく、私があなたたちに与えようとしている多くの贈り物が、あなたたちが準備される時を待っている。」
「ああ、私があなたたちに与えようとしまっている、限りない宝物。あなたたちが夢見ていたこと、あなたたちが敢えて夢見ることさえできなかったこと。あなたたちの人生をますます私に捧げるに従い、この全てがあなたたちを待っている。夢見てほしい。神様には不可能なことはない。ずっと前にあなたたちが諦めていた多くの渇望は、未来においてあなたたちが地上でこれをよく成し遂げたことによって、報いを与えるために、私があなたたちの胸の中に植え付けておいたものなのだ。」
「覚えてほしい。私の前で清算されるのは、あなたたちの才能ではなく、私があなたたちに委ねた才能を、あなたたちがどのように使用したかにかかっているのだ。それが核心だ。多く与えられた者には多く求められるだろう。しかし、少なく与えられたが、多くの実を収めた者は、より大きな報いで報われるだろう。」
「あなたたちがこれらを成し遂げるには、かなり長い時間がかかるだろう。私があなたたちに与えたものを用いて最善を尽くしてほしい。過去の声を、あなたたちの未来を支配するようにさせないでほしい。その代わりに、私の許しを受けて、大胆に立ち上がってほしい。あなたたちがより良いものを選んだので、私が必ずあなたたちと同行し、あなたたちに報いてくれるだろう。」