128. 主の霊なのかファリサイ人の霊なのか
主の霊なのかファリサイ人の霊なのか
2015年1月4日
今日、私たちは負っている心の荷物を分かち合いたいと思います。 エスゲルと私が主の体である教会のために背負っている荷物ですが、最近私のメッセージの正確性について心配になりました。 私のメッセージが主から来るのかどうかを確実にするために、私は非常に多くの時間と努力を傾けます。 たとえ正しい分別をするにはあまりにも足りない人間ではありますが、最善を尽くします。 私の投稿するメッセージが有効なのか、できるだけ見分けをつけます。 もし何か間違いがあると思ったら、投稿したメッセージを取り戻したりします。 特に重要な内容の場合はなおさらです。
私は学ぶのが好きで、時間を作ってコメントを書いてくださった皆さんの考えを聞いて考えるのが好きです。 最近、私は皆さんのコメントを読んで考えるのに本当に多くの時間を費やしています。 たとえ内容が挑戦的なものだとしても、本当に感謝の気持ちを持って読みます。 内容が挑戦的だとしても私には問題にはなりません。 相変わらず嬉しくて考えられる何かをくれるからです。 そして、私が変えるべきことがあれば、私は変えます。
最近話題になったマイアミに落ちる核爆弾問題について私は主に聞きました。 なぜなら、あるイシューは緊迫したイシューかもしれないからです。 主はその内容をもう一度確認してくださいました。 しかし、この確認をしてくださる方がイエス様なのか、私はもう一度確認したかったのです。 それでもう一度主に尋ねたところ、主が優しく私に思い出させてくださった単語が「兄弟愛」でした。 そして、主の体が一致することが予言の正確性よりさらに高い優先順位を持つという話でした。 えっと…私はマイアミに対する予言が正確なのか心配していますが、主は愛について心配していました。 そうですね。あまりにも神様らしい姿じゃないですか?
ここで私はコリントの信徒への手紙を話したいと思います。
(コリントの信徒への手紙一13章1~5節) たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
あまりにも頻繁に私たちの自我は意見というものに集中し、真理に対する誤った情熱という仮面をかぶり、その意見を押し付ける傾向を持つようになります。 自分の考えが正しく、他人の考えが間違っていることが確実になるまでそうする傾向があります。 なんて悲しい姿でしょう! 皆さん、私たちはみんな同じチームです。 同じキリストの体の一部です。 他の部位を弱くしなければならないでしょうか。
先日、私の夫エスゲルはひどい苦痛を受けました。 主が受けた鞭打ちと釘打ちの苦痛から来るような感情の苦痛をある程度感じました。 なぜなら、キリストの体になった教会が非難し、戦い、批判する姿が、主の体に鞭打ちをするようなことだからです。 主が彼に見せてくれたものですが、一度の鞭が私たちが互いに向かって突いて殴る姿と同じだということでした。 体の一部が痛いのですが、頭がその痛みを感じないことは可能でしょうか? 絶対不可能です。 私たちが互いを傷つける時、私たちは私たちの体も頭も痛くして傷つけるのです。 私たちが主を直接侮辱し、批判し、卑下することです。 教理的な違いに対して反対するなという意味ではなく、そのような違いがあるにもかかわらず寛大さと柔らかさを持たなければならない重い責任があるという意味です。 さらに良いことは、論争に巻き込まれないことですが、そのような論争は避けられるからです。
聖書もこのようなことについてアドバイスしてくれます。 予言と関連して無駄な論争に巻き込まれるなと。
(コリントの信徒への手紙一13章8~10節) 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、 わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。 完全なものが來たときには、部分的なものは廃れよう。
そうです。愛は決して落ちません。 私たちが愛の線を越える時、こぶを無くそうとする途中でこぶをもう一つつける羽目になります。 主は自分の花嫁たちに対するこのような打撃に対して痛がっています。 何よりも、主は私たちを愛するように、世界中に愛の手本になれと呼びました。 ヨハネによる福音書では「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」とおっしゃっていました。 賢い弁論でもなく、巧みな反論でもなく、愛、寛大さ、忍耐、親切、長く我慢することです。 攻撃的な心では確かにありません。
私たちはお互いを必要としています。 神様は私たちに互いに仲良く過ごしてほしいんです。 優しい心で兄弟や姉妹の考えを正してくれるのであって、批判や起訴をするようにしてはいけません。 お互いに助け合い、励まし合い、聖なる愛の考えの中で正し、まるで私たちが十字架から降りてくる傷ついた主の体を触るようにお互いに接しなければならないでしょう。
私たちが互いに批判的に接するようになれば、私たちが人々を攻撃的な態度で接するようになれば、それが彼らを傷つけることになります。 彼らを傷つけ、弱くすることです。 それは主の霊ではなく、ファリサイ人の霊です。 宗教的な姿です。 私たち全員は宗教の霊を持ちたくないだろうと思います。 なぜなら宗教の霊はサタンの送る霊ですが、主の体を分裂させるための任務を持っているからです。 私たちが自分のやり方に固執するとき、何かを攻撃するとき、害を与えます。 そのように攻撃し、害を与えるのは主の霊ではなく、ファリサイ派の霊であり、宗教の霊です。 私たちがそのような考えや態度を持っているならば悔い改めが必要な部分ですが、主の赦しを得なければならないでしょう。
そして、もし私たちが私たちの兄弟や姉妹の気分を害したとしたら、行って和解して正さなければならないでしょう。 ごめんなさいと言わなければならないでしょう。 私たちは主の体を連合させることを願うのであって、破壊することは望んでいません。 私はある重要な真理のイシューに対して妥協しろと言っているのではありません。 何かについて他の人と衝突したとき、意地を張って醜くならず、柔らかくて親切にしろということです。 実際、このようなほとんどの論争内容は、私たちの救いと何の関係もない場合が多いです。 しかし、他の魂を傷つけると、その魂は救いを失う危険にもさらします。 こんな大きな責任を負いたがっているのでしょうか。 イエス様の血を流して救った魂を突く血のついた手が欲しいのでしょうか。 これは本当に深刻な問題です。 決して小さな問題ではありません。
こんな魂は主の花嫁になっていない姿です。 正直に言いますと、主が天に現れるとき、この地に残される危険にさらされているのです。 もし心の中に誰かに対する否定的な考えを持っていたらどうなるでしょうか? 聖書は非常に明らかに、この否定的な考え、つまり苦い根と許せない心について教えています。 自分の考えが正しいと主張する様子。 もし私たちがこのような姿を持っているなら、それがまさに傲慢であり、本当に大きな危険にさらされているのです。 携挙の時が近づいている時に、自分が天に登ることになるのか、残ることになるのかを考えながら、この地に立っていたい気持ちが私には全くありません。 私たちは今でも時々主からその時に対する警告を受けていますが。
私たちの中に荒れた姿を乗り越えられる愛があるように祈ります。 そして、このユーチューブチャンネルに残されるコメントが信じない人たちに良い手本になればと思います。 彼らがこう言うようになればいいと思います。 「見よ、彼らがどれほどお互いを愛しているか。 ここは他の所と違って陰口で非難するものがない。 確かに彼らは愛している。」
このような姿が神様が私たちにおっしゃってくださったように、信じない者たちに映し出されるクリスチャンの姿であり証拠だと思います。
神様が皆様を祝福してくださることを願います。 私たち皆が平安を作る人、真理を愛する者たち、魂を愛する者たちになるように主が助けてくださるようにお祈り致します。 アーメン。