263. 栄光の領域で毎日を生きる
栄光の領域で毎日を生きる
2015年9月16日
Heartdwellersの皆さん、主の甘い臨在と導きが私たちと共にあります。
(最近のクレアの夜と昼が変わった生活パターンの話、途中省略)
主が私に話したいことがあると言われたので、私はパソコンの前に座りました。 主が言いました。
「また来たことを歓迎する。」
「ああ、主よ、私を抱きしめてください。」
「この間、どこにいたの?」
「主に集中し、眠らないように努力していました。」
「よくやった。今はここにいてよかった。 あなたを愛している。」
「私も主を愛しています、素敵なイエス様、永遠に、永遠に愛しています。どうすれば、永遠にあなたを愛し続けることができますか?」
「私の心もそうだ。」
「絶えず主を愛すること、それは贈り物ではないでしょうか?」
「そうだ。」
主は目を輝かせながら言われました。
「主よ、私に主を絶え間なく礼拝し続けるという、贈り物をいただけますか?」
「ああ、そのような要求は私の心をときめかせる。そのようなレベルで私と一緒にいるためには、すべての創造されたものを放棄しなければならないだろう。人々がどう思うかについて、人々の目にどう見えるかについて、食べ物や娯楽で楽しむものについて、すべての愛着を喜んで捨てる人々、そうして世に対して死んだ人々。 このような人々が私を絶えず礼拝する贈り物を私に求めるなら、私はその贈り物を与えることができる。」
「主よ、世の中にはそのような人がいると思います。 私の知る限り、ある時はエゼキエルも私もそのような気持ちになったことがあったようです。」
「そのような人がいる。しかし、そのような素晴らしい生き方をしていながらも、私に絶え間なく私を礼拝する贈り物を私に求めない。すでに私に没頭しすぎているのに、私に声を出してそのような要求をしない。そんな要求をすることすら考えない。」
「どうしてですか?」
「あなたは、彼らがなぜそうすると思うか?」
「自分にそんな資格がないと感じているからですか?」
「それも一部ある。でも、もう一方では、彼らはそのようなプレゼントをもらえると、思ったことがないからだ。しかし、私がここで真実を言うが、私を絶えず礼拝する贈り物を受け取ることは可能なことだ。」
「主よ、本当にそれが可能なのですか?」
この時、主は深いため息をつき、私に言われました。
「クレア、あなたはどう思うか。」
この時、私は今、主が話しているのが主であることを確認したかったので、聖書の約束を開いてレマの言葉を確認したところ、「聖霊」の部分を開くことになりました。 この言葉が主から来ていることがわかりました。
「私の良さについて、絶えず思索できる贈り物は、求めるすべての人に与えられる。そのためには代償を払わなければならない。彼らは世が提供できる快適さから離れなければならない。」
「だから、昔の古いクリスチャンのように、聖カスバートのように、夜、海辺に立って、ずっと目を覚まして祈ろうとしていた人たちのようにですか? カワウソがやってきて、彼の体を温めてくれたのを思い出しました。 そして、私たちが5年間山の上に住んでいた理由も、よりシンプルな生活を送り、主とより近くなるためでした。本当に私たちが望んでいたのは、すべてから解放され、祈り続け、主の良さを考え続けることでした。 あの頃を思い出させていただき、ありがとうございます。」
「他の考えに流されないでほしい。あなたたちを再びあの山に戻すつもりはない。」
「私が言っているのは単純なことだ。信仰を持つ者に何が可能かを言うのだ。あなたたちは働かなければならないのではなく、信仰を持たなければならない。私の愛よ、言い換えれば、それはあなたたち次第ではなく、恵み次第、つまり私次第なのだ。カスバートがそのように行動した唯一の理由は、私と一緒にいたかったからだ。その切望はあまりにも強烈で燃えるように熱く、眠りによって私のことを考える意識を失うことは、彼にとっては嫌なことであった。わかるか。」
「うわー。」
「そう、彼は私とそう繋がっていたのだ。」
「本当に彼はそんなに主とつながっていたのですか? 眠りたくなくなるほど?」
「そう、彼は肉の習慣という力からも解放されていた。」
皆さん、これが想像できますか?本当に想像すらできないほど理解できないですね。 全知全能の主、偉大で強力な方、その方を見据え、実際にそれを体験する喜びに浸って、眠りたくもない姿。 そんな姿になるために全力を尽くすこと。 何て素晴らしい魂なんでしょう。
「そう、信じる者には想像を絶するほど、高い栄光の領域がある。重要なのは仕事ではなく、信仰なのだ。」
もし私たちが主を信じるなら、私たちは私たちの生活を主に対して非常に敏感にし、恵みに反応できるようになります。 だから、私たちが望むこと、必要とすることにも自己否定できる時があることもあります。
「しかし、繰り返しになるが、肝心なのはやはり信仰だ。この言葉を覚えてほしい。『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです。』」(ヘブライ人への手紙11章6節)。
「もしあなたたちが心を尽くしてわたしを求めるなら、あなたたちはわたしを見つけるだろう。クレア、私の愛よ、私はあなたを満たしたい。 わかるか? あなたの成果が低いから、満たさないのではないのだ。 私の愛よ、真に私はあなたを私の心で満たしたい。」
「それなら、何が問題なのですか、主よ?」
「本当に答えが欲しいのか?」
「主よ、主もご存知の通り、私は答えが欲しいのです。」
「簡単に言えば、あなたがまだ持っている世への執着だ。」
私は主の答えについてしばらく考えました。 そしてこう尋ねました。「しかし、例えばどんなものが世への執着なのでしょうか?」
「何を食べるか、何を着るか、ということだ。」
「主よ、私はそのようなことは関係ないと思っています。 私はそのような執着が、私の中にあるとは思っていません。 私はむしろ、私の人生から必要のないものを取り除く方法を探し続けています。 それで、主のためにもっと多くの時間を持つことができるように、生活はもっとシンプルになるように努力しています。」
ちなみに、このレコーディングをする前に、主のメッセージを夫に読んであげたのですが、夫は笑ってこう言いました。 『私はあなたが食べ物に執着していると思うよ。 あなたは毎日食べ物の話ばかりしているんだから!(笑)』その時、私は『ああ、私は盲目なんだ。 私が見ていないものがあるんだ』と思いました。
「そんな世俗的なことに時間を費やすことなく、自分に与えられた仕事をやり遂げるための近道を見つけなければならない。しかし、それさえも、他の人を教えたり、世話をしなければならないので、問題が生じるものだ。 そのような世俗的なことが必要ない、あるいは考慮することさえなければ、どれほど良いことだろうか。」
「主よ、あなたは今、薪のようなものの話をしているのですか?」
「いいえ、私は必要なものについて話しているのではなく、あってもいいもの、なくてもいいものについて話しているのだ。」
「主よ、じゃあリストを教えていただけますか?ちなみに私は今、猫を撫でながら喜びに浸っているのですが、この時、私は思いつきで主に言いました。 『主よ、もしかしてこれのことですか?猫を撫でるようなことですか?』」
「もし知っているのか、あなたの猫が私を黙想するのが、あなたより優れていることを知っているか?」
「えっ、本当ですか?」
「私があなたに嘘をつくか?」
「いいえ、主は決して嘘をつきませんよ。」
「じゃあ考えてみろよ、猫は布を織ったり、そこから糸を引いたり、夕飯に何を食べようか考えたりしない。あれも食べたい、これも食べたい、いろいろなメニューが欲しいなどということもない。彼らはただ食べ、眠り、静かに考える。 その心は子供のように単純だ。 だから彼らは、この世であなたたちの複雑な考え方が許さない、私を認識する場所へ没頭することができる。」
「あなたたちが動物たちの考えを聞き取れないからといって、彼らが愚かであるとは限らない! 天国で私たちに向かい、私たちに従った花を覚えているか? 彼らは動物でもないのに、私と私たちを認識しなかったか? すべての被造物が私を認識せず、どうして嘆くことができるだろうか? 動物たちは愚かでも幻覚状態でもない、むしろ人間がそうなのだ。」
「ああ、主よ、私たちは主の創造の最高傑作なのに、私たちが愚かで幻覚状態にあるというのですか?」
「それは事実だ。あなたたちの増加した認識と、物事がどのように動作するかについての知識のために、あなたたちは、生活の細部に、精神が簡単に散らばってしまう傾向がある。しかし、動物は子供のように単純であるため、より簡単に私に引き寄せられる。 彼らは考えたり、疑問を持つことがほとんどない。 しかし、人間は知識や力を追求する過程で、私から百万マイル離れて日常生活を送るほど、自分の心を汚染してしまった。」
「このような理由から、原始文化がいわゆる産業国家よりも霊的な世界に近いのだ。人々の知性は単なる幻覚と妄想だ。 なぜなら、自分の人生で最も重要なことが無視されているからだ。だから最終的に分析してみると、自分を極めて賢いと思う人は、自分にとって最も重要なこと、すなわち永遠の住処について極めて無知な者となる。人が全世界を得ても、自分の魂を失ってしまったら、どんな益があるだろうか」(マルコによる福音書8章36節)
「うわー、これは深い内容ですね。」
「そうだ。同じような理屈で、世の中で最も軽蔑される人が、私に最も没頭している人たちだ。このような人々は、ホームレス、原住民、世を捨てて原始的な生活を送るために隠遁する人々が、これに含まれる。彼らが世を捨てる理由は、世に関わりたくないからではなく、私のためである。この中には2つのタイプがある。世の中から多くの苦しみを受け、世の中でうまく機能しないので、世の中を捨てる人と、うまく機能するが、より良い部分を選んだ人がいる。」
「では、他の人に背を向けて、社会に貢献しない人たちについてはどう思いますか?」
「私の愛する者よ、それは私の召しだ。あなたたちが自分でそうするのではなく、私があなたたちを呼ぶのだ。私たちはこれについてもっと話そう。私の愛する者よ、私はあなたの心にそのような思いを植え付けたかった。 クレア、私はあなたの心を知っている。まさに私がその心を作り出したのだ。私はあなたの人生の時間を知っているし、あなたの最も深い欲求が何であるかを知っている。今はあなたに任された羊の群れの世話をし、私の栄光を黙想してほしい。この創造された世への愛情をますます空けるならば、私はあなたにますます多くの栄光の世界を開いてくれるだろう。」
「私の花嫁たちよ、孤独と単純さの中で生きることは、とても特別な召命であることを確信してほしい。もしあなたたちが私の呼びかけを受けなかったら、それは災難だっただろう。だから、あなたたちが考えるように、聖なるものと思われる他の何かを求める、間違いを犯さないでほしい。あなたたちに可能な、唯一の聖なる生活は、あなたたちに知られている私の意志と、あなたたちの生活の状態に従順に従うことだ。この生き方については、別の機会にもっと詳しく話す。その間、肉体を脱ぎ捨て、人生と時間を私に譲る方法をどんどん学んでほしい。そうしている間に、私の祝福があなたたちに降り注ぐだろう。」