280. 癒しの賜物
癒しの賜物
2015年10月1日
今夜、主は私たちと共に教えと励ましを与えてくださいました。主は、私たちが理解しなければならない癒しに関する,
いくつかの重要な点について話してくださり、私はそれに対して非常に感謝しています。主が数年にわたって私に分かち与えてくださったことを、私に思い起こさせてくださいました。
例えば、私は夫のために癒しの祈りをし、多くの癒しの奇跡を経験しました。癒しが起こることもあれば、起こらないこともありました。そこには主が許された特別な理由があり、私たちが本にした「私はなぜ治らなかったのか」という本に詳しく説明されています。今夜、私は少し眠りました。そして目覚めた時、主にこう言いました。「主よ、私はここにいます。少し眠っていました。」
「待っていた。」
「すみません。」
「いいんだ、元気を取り戻せてよかった。そして、あなたが感じている苦しみは他の魂のためのものなので、その苦しみは消えないだろう。」
「はい、今夜は私の線維筋痛症がひどかったです。その事実を教えてくださり感謝します、主よ」
「なんてことないよ、私の小羊よ。」
「ああ、今や私は小羊なのですか?」
「確かにあなたは小羊だ。」
「ああ、それは少し大変かもしれませんね。聖書で羊に起こることを考えると、それは少し困難かもしれません。」
「あなたが今までに経験したことではない。あなたが行く所々で、あなたは2種類のことを経験したことだろう。あなたを熱心に支持する人々と、あなたを非難して拒絶する人々に出会ったことだろう。私の器としてあなたを愛する人々、真の信仰の共同体を持つことができてよかったではないか?」
「私たち全員が一つの家族であることを示すものですね、主よ。」
「そうだ。あなたの心だけでなく、私の心も遠ざかっていった人々のために痛む。しかしそれは自由意志の結果だ。私の良い贈り物さえ拒否する自由意志の結果だ。」
「主よ、主が人々をより高い場所に召し、彼らに多くを提供されるときに、それを拒否する人々を見るよりも、私はさらに深い痛みを感じたことがないように思います。ある意味では、それは破壊的です。」
「そうだ、あなたはその時にはそれを放っておいてもよいが、必ずしもそうする必要はない。その恵みを適切に使う他の人たちが列を成している。私の賜物を常に待っている別の魂がいるのだ。」
「さて、今や皆に癒しの賜物を送ったので、この賜物を受け取る人々が何を期待すべきかを教えよう。彼らは家族や親族から反対を受けるだろう。なぜなら、預言者は自分の家では敬われないからだ。これは皆を落胆させようとしているのではない。むしろ喜べ。これが人々が常に、預言者と、真理を教える教師たちを扱う方法なのだ。実際、人々があなたがたに対証するのは、私があなたがたと共にいる証拠なのだ。あなたがたが悪者たちにとって脅威にならないなら、あなたがたは反対されないだろう。」
「だから、私の言葉をよく覚えておいてほしい。あなたがたが受けた賜物と私のコーリングのために、誰かから反対されるならば、それはその賜物とコーリングが本物であることを示す、私の承認の証なのだ。」
ここで主が花嫁たちに話されているのは、癒しの賜物を受け取った時、それが私たちの家族や、私たちをよく知る人々との関係に、どのように影響するかについてです。
「さらに、敵はあなたがたの祈りを止めさせようと、いくつかの文を耳打ちするだろう。最初は、『効果がなければどうするつもりなのか?そうすれば、あなたはばかげて見えるだろう?』というものだ。」
「敵のこのような言葉に対するあなたがたの反応が、この賜物をあなたがたのところで、作用させるかどうかを決めることになる。この失敗への恐れ、この挫折への恐れ、そして嘲笑への恐れは、敵があなたがたの気持ちを折ろうとするときに使う最たるものだ。なぜそうするかわかるか?順応する方がは安全だからだ。既存の枠組みに順応する方が温かく、親しみやすく、守られ、歓迎されるからだ。しかし既存の枠組みを破る者は、批判、疑惑、あざけり、拒絶にさらされる。だから今、私はあなたがた、私の花嫁たちに確かに言うのだ。あなたがたが直面しているのはまさにこのことだ。あなたがたは承認を求める気持ちと拒絶への恐れを克服しなければならない。サタンは、拒絶への恐れが、あなたがたに賜物の務めを始める前に止めさせると考えている。」
「実のところ、今この賜物についてあなたたちの中で心配している者がいるだろう。この賜物がもたらすであろう難しい状況を思い浮かべ、本当にこの賜物を望んでいるのかどうか自問自答しているのだ。それをどう乗り越えたらいいか教えよう。自分自身を愛するよりも他者を愛する気持ちが強ければ、失敗を恐れずに前に進もうとするだろう。あなたたちの中で、承認欲求という肉体的な欲望に暴力を振るい、自分を捨てる訓練をした者は、この賜物を非常にうまく使えるようになるだろう。しかし、あなたたちが、そのような承認欲求の誘惑に引っかからないとは、少しも思わないでほしい。あなたたちは限界に達するまで試されることになる。」
「心から愛と憐れみの気持ちが湧き上がれば、すぐさまその気持ちが油注ぎを強く引き寄せるだろう。愛や憐れみの気持ちがそれほどでもないとしても、それでも前に進もうとすれば、その従順さが油注ぎを強く引き寄せるだろう。私は人間性をよく心得ている。あなたたちがいかに頻繁に気分が変わり、気まぐれになるかを知っているので、そんなあなたたちのためにも備えがあるのだ。」
「次にあなたたちに待ち受ける敵の障害は、『この祈りは通用しない。本当に神があんな病気を癒すと思うのか?自分が誰なのか見つめ直せ。あんたなんて、何もそれほど特別な人間じゃない。』といったものだろう。」
「その攻撃に対するあなたたちの答えは、私があなたたちの体の内に生きていると、しっかりとした決意を持って宣言することでなければならない。私はあなたたちの心に入り込んで住んでおり、従順に進もうとするならば、その従順には必ず祝福を与えるだろう。」
ここで付け加えさせてもらうと、これが臨在祈りがあれほど重要な理由なのです。なぜなら、主と私たちがこれほど深い交わりを持つとき、主が私たちの内に臨在されていることを確信し、その確信が私たちの信仰を大いに高めてくれるからです。私たちは主を直接経験しているからです。
「感情が湧かなくても、彼らの癒しにはあなたたちの感情は必要ない。実際、私は、あなたたちが感情を込めたり見せ掛けたりするのではなく、無表情のまま私を通して働くことを好む。あのような感情や見せ掛け、自慢は高ぶりを助長するだけだからだ。何も感じないなら、それはいい。癒しが必要なのは彼らなのだ。あなたたちは癒し手ではなく、ただの私の使者に過ぎない。」
「時として、私の臨在があまりにも強烈なため、手が熱くてヒリヒリするのを感じるかもしれない。それは賜物が働いている確かな証拠だ。肝心なのはあなたたちの信仰である。私を信じ、私の言葉を信じるなら、疑う者の意見があろうとも、数多くの癒しを目にすることになるだろう。」
「症状が変化し始めても驚くことはない。時として犠牲が必要になることにも驚かないでほしい。シモンの十字架について教えたはずだ。その犠牲とシモンの十字架は実にリアルなものなのだ。他者のために、特に一人のために祈るとき、私はあなたたちの体に不快なものを許すこともある。その魂が完全に癒されるまで、数日の間、私の十字架の一部をあなたたちが背負うこともあるだろう。その一環として、抵抗や困難にぶつかることもあるので驚かれないでほしい。それはすべて十字架の一部であり、賜物が働いていることの証なのだ。」
「考慮すべき点の一つは、その魂の状態である。ある時は、言葉一つ発することなく私が癒すだろうが、ある時は、癒しを必要とする魂に、私に赦しを請うよう求めるだろう。それがどちらかを見極めるのがいいだろう。『あなたは、あなたを傷つけた全ての人を許しましたか?』との問いに対し、答えが『はい』であるか、少なくとも許そうとする意志を持たせるよう、その魂を祈りに導くのだ。こう祈ってみるのがいい。『主よ、私には許す気持ちがありません。しかし、彼らを許そうとする意志は持ちたいと思います。どうか私に許せる気持ちを持たせてください。』」
「人々の病気は、何らかの出来事に関係していることが多い。自分自身を許していないなら、それも解決しなければならない。最初から難しいことを求めたくはない。しかし、あなたたちが働きを進めていけば、人々の癒しを妨げる要素があることに気づくはずだ。」
ちなみに私たちのチャンネルには、許しと手放すことについての黙想音楽があります。私はそれらが本当に感動的だと感じており、誰かが他者や自分自身を許すのを助けてくれると思います。再生リストの中の「黙想」というタイトルがそれらです。
「ある場合は、苦しみが表れないこともあり得るが、病気はまだ残っているのだ。私の花嫁たちよ、病を癒す私の方法は数え切れないほどある。状況がまったく同じということはない。私はその魂を見つめており、その苦しみや失敗が何であるかをよく知っている。働きをするとき、あなたたちは私の慈しみを必要としている傷ついた魂を見ているのだ。私が癒さないのは、大抵はよい理由があるからで、あなたたちの信仰が足りないわけでも、彼らの信仰が足りないわけでもない。タイミングの問題が関係しているのかもしれないし、人生の教訓が関係しているのかもしれない。」
「昨日言ったように、あなたたちは彼らに尋ねる必要があるかもしれない。『あなたは、イエス様に癒しの力があると信じますか?』そして『私が一クリスチャンとしてイエス様が私の内に住んでいることを信じますか?』そしてこう言えるだろう。『私があなたに手を置くとき、イエス様がその癒しの力であなたに触れることを期待しています。主は癒し主であり、私はただの器に過ぎません。』そして時として、あなたたちがすべきことは、ただその人に手を置き、静かに私の慈しみがその人に注がれるよう祈ることだけなのだ。」
そうですね。それに関連して、私たち自身の経験を話させいただきます。今おっしゃったように、私とエゼキエルでも癒しが起きることが多くありました。私は静かに主の慈しみを祈り、何も言いません。しかし時々、主は私に病気の名前を呼んで直接対処するよう教えてくださいました。例えば、「炎症よ、イエス様の名によりここを去れ、もう戻ってくるな。痛みよ、イエス様の名によりて止まれ。腫れよ、イエス様の名によりて小さくなれ。そして体内の細菌やその他のものよ、体を離れ、もう問題を起こすな。」これらは主から教わったことです。
「最初の努力では十分でなく、望む結果を得るまで祈り続ける必要があるかもしれない。人々のために祈るうえで最も重要なことは、その状況に対する私の意志を知ることだ。私の意志を知っていれば、ほとんどあらゆる種類の嘲りや反対にも耐えられるだろう。病院で非常に重大な事態に直面しても、あらゆる手段を尽くしても失敗しても、あなたたちの忍耐は良い結果をもたらすかもしれない。」
「一度癒しを受けた人には、その癒された状態を維持する方法を教えることが非常に重要だ。彼らは一時的な安堵感を感じ、癒されたと喜ぶかもしれない。しかし家路に着くと、症状がまた現れ、癒しは一時的なものだったと気づくだろう。そんな時、彼らは偽りの症状を叱らなければならない。偽りの症状は、今治癒された人々に送られ、彼らに自分は癒されていないと思わせようとするのだ。それに備えるため、あなたたちは彼らに、自分が癒された状態を固く信じ、偽りの症状に屈することのないよう教えなければならない。ああ、その嘘に陥ってしまうことは簡単に起こる。クレアとエゼキエル、あなたたちも以前に偽りの症状に遭ったことがあるはずだ。」
そうですね、みなさん、私も何度か経験があります。正直なところ、まだこの問題を完全に克服できていません。エゼキエルが私のために祈ると、私の症状は消え去りますが、その後再び症状が現れ始めます。そうするとその偽りの症状を叱らなければなりません。再発しようとするあの偽りの症状であれ、何であれ、それらはここにいる権利はありません。私は癒されたのですが、敵はその症状を送り返し、私に自分は癒されていないと思わせ、その病気の条件を再び受け入れさせようとしているのです。ですから私たちは、自分が癒されたという信仰の上に堅く立ち、偽りの症状を打ち払わねばなりません。
「癒しにはもう一つの側面があり、それは病気がそのままその場に留まらなければならない場合があるということだ。ある苦しむ魂が、おそらく非常に深刻な状況にあるか、地獄に行く危険な霊的状況にある可能性があり、その解決までには多くの恵みを必要とするかもしれない。そのような場合、その魂は、自分のために祈っている人のために、この病気の十字架を背負うことを決めたのだ。だから、『誰のために祈っているのか』と尋ねる習慣を身に付ける必要がある。なぜなら、その魂はより大きな次元の祈りを必要とする極めて深刻な状況のために祈っているからだ。そのときその病気は、使徒パウロのとげのような捧げ物となるのだ。」
「これは私たちをまた別の観点に導く。ある魂が多くの恵みの重荷を背負っているとき、謙遜にさせるために病気が許されることがある。それほど多くの恵みがあるため、その魂が高慢にならないよう、それによってすべてを失わないよう、自分の魂さえも失ってしまわないよう、病気が許されるのだ。」
「これらが、あなたたちが癒しの働きに入るにあたって、直面するだろうことがらの一部だ。覚えておくがいい。私はあなたたちと共にいる。感じられるかできないかにかかわらず、私はあなたたちの内側で働いている。しばしば起こることだが、反対が最も激しくなり、あなたたちを非難する声が空中に満ちていて、あなたたちの顔を次々と打ち付けているときこそ、あなたたちが大きな突破口に近づいている合図なのだ。そうでなければ、敵はあなたたちを攻撃するために、そのような苦労をする理由はない。」
「サタンは私を嫌っているが、私には何もできないことをあなたたちも知っているだろう。しかし、私があなたたちを愛していることをサタンも知っている。だからこそ、私を傷つけるため、サタンはあなたたちを傷つけようとするのだ。最終的にはサタンは縛られ、天国は栄光に満ちるだろう。私の花嫁たちよ、そのときまで、私があなたたちに与えた計り知れないこの賜物を受け入れ、すべての人、特に傷ついた者、失った者、捨てられた者たちに注ぎ注いでほしい。特に私から忘れ去られたと思っている人々、しかしそうではまったくない人々を、この賜物で慰め包んであげてほしい。彼らは確かに私の心の中に大切に置かれている。」
「さあ、信仰をもって前に進み、この賜物を用いてほしい。反対に遭うことを覚えておくがよい。その反対こそが良いしるしなのだ。その反対を見て力を得てほしい。」