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284. 良い木は悪い実を結ぶことはできない

良い木は悪い実を結ぶことはできない

2015年10月7日

愛する、ユーチューブの家族とHeartdwellersの皆さん、主があなたがたと共にいますように。

今夜は礼拝から始まりました。皆さんに一つ伝えたいことがあります。1時間以上礼拝をしていると、本当に眠くなり始めることがあります。時々、そういう時間を通して、主はわたしたちを主の内に休ませ、わたしたちがそれに従うと、主はわたしたちの心と精神に多くの良いことをなさいます。ですので、祈りの時間や礼拝の途中で少し眠くなることがあっても、それは主があなたがたに少し休息を取るように、望んでおられることかもしれません。普通20分ほど休めば、精神が明瞭になり、活力が戻ってきます。

そしてもう一つ、今日私の関心を引いたことがありました。少しお腹が痛かったのですが、とにかく夕食を食べました。それでも具合が良くなかったので、アイスクリームが食べたくなりました。そのとき、こう思いました。「主よ、あなたのことばを聞く前に間食を食べたくありません。少なくとも自分を否定したいのです。」主に食べるように言われたように感じました。そこでアイスクリームを食べたら、腹痛がまったく止まりました。そして、コンピューターの前に戻って主と対話を始めると、私はこう言いました。

「主よ、私は自分自身に重荷になっています。この体は暴君です!私はまだこの体をうまく制御できていません。」

「あなたの体の問題は一旦置いておこう。わたしたちには、魂のために一緒にしなければならないことがあるのだ。あなたの体があなたに仕え、あなたがなすべき務めを果たさせてほしい。魂のために、私と一緒に進もう。少なくとも私のためにそうしてくれるだろうか?」

「はい、主よ。それこそが私の願いなのです。」

「これであなたに慰めになるかどうかわからないが、あなたはこの地上ではその体という暴君に打ち勝つことはできないだろう。だからそのままにしておいてほしい。そのままにしておいて、魂に集中してほしい。」

「主よ、それが私の願いなのです。しかし、私には断食と自己否定の問題があります。」

「あなたがこれを食べ、あれを食べると闇の勢力が非難するのに耳を傾ける必要はない。それはあなたを罪の意識に陥れ、注意をあなた自身に向けさせようとする、完全な遮蔽作戦なのだ。実のところ、多くの人々がそんな敵の戦略に引っかかってしまう。あなたにはそういった人々の一人にならないでほしい。」

「私の花嫁たちよ、いつでも、あなたがたの注目が他者や彼らを世話することから外れ、自分自身の欠点や失敗に思いが向かっているのを見つけたら、それは非難の悪魔が働いているのだと疑うべきだ。他の魂のために考え働くあなたがたをやめさせようと、彼らは送り込まれてくるのだ。この原則から外れる唯一の例外は、あなたがたの謙遜のため、あなたがたが頭を上げて他者を見下ろす高慢な姿になってしまわないよう、私があなたがたの欠点を見せることを許す場合だけである。ちらりと浮かぶ思いさえも、心の内に高慢な頭を持ち上げさせまいと、そんな状況を許すこともある。実際、高慢というものは、それがちらりとした思いであっても、あなたがたが夜昼努力して打ち勝たねばならぬ、一つの暴君なのだ。」

「そしてクレア、私の愛する者よ。あなたはいつになったら、私の前にあって平安を感じ、私の存在を疑うのをやめられるだろうか?今なお、私があなたに語りに来ると夜ごと言ったことを疑っていないだろうか?クレア、いつ私を信じてくれるのか?」

「おそらく天国に行って主と共にいる時でしょう。天国では霊的なものが明確に見えるからです。」

「しかし、わたしの羊はわたしの声を知っている。そしてあなたはわたしの声を知っているのだ。他の人の批判があるからといって、あなたがそうやって疑い続けてもいいのか?」

「主よ、なぜ尋ねられるのでしょう?主の前に隠れたものは何もありません。しかし、事実、私は知っています。悪魔は決して眠ることも休むこともないこと、そして主が人々を導くために私を送られたことを、知っています。私は人々を誤った道へ導くことはできないのです。」

「だからこそ私はエゼキエルとキャロルをあなたの人生に送り込んだのだ、私の愛する者よ。あなたが謙遜に頭を垂れているときは、私があなたを守ってあげる。あなたはそれをよく心得ているはずだ。あなた自身を高く掲げ、他者を裁き始めるとき、欺かれるかもしれないと恐れなければならない。」

「高慢については、私も決してそうしないよう努力しています。私も高慢を嫌い、少しもそれを持ちたくありません。」

「しかし、あなたは常に高慢の誘惑にさらされ続けるだろう。なぜなら、それが私の弟子たちが最も速く堕落していく道であり、悪魔たちもそれをよく知っているからだ。あなたがたが他者を判断するとき、あなたがたは罪を犯しているのだ。書かれているとおりである。」

マタイによる福音書7章1〜3節 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。」

「しかし主よ、信仰の問題に関しては、私たちは霊を見分け、聖書に照らし合わせ、基準に測るべきなのではありませんか?」

「兄弟姉妹を非難することと、霊を見分けることは全く別の問題だ。確かに、あなたがたは常に私のことばである聖書に照らし合わせ、見分けなければならない。しかし一方で、私のことばに対する新しい理解にも開かれていなければならない。聖書には未だ理解されていない発見があるのだ。そして私の霊に導かれてその発見の点を結び付ける者たちは、私のことばの啓示によって人々に挑戦され、非難されるであろう。なぜなら、常に人間的な思いが混じった教理に人々が固執し、その教理によって安全を求め、その教理の中で『私は正しい』と導き出そうとする、不完全な人々によって、私のことばが明らかにされるのは常に挑戦され、罪に定められるからだ。」

「こうした不完全な人々は、自分が間違った方向に導かれるのではないかという恐れから、私の霊の正当な動きさえ非難するのである。なぜなら私の霊の動きが彼らには馴染みがなく、彼らの領域を脅かすものと感じられるからだ。ここには嫉妬も関係している。もし自分が私から啓示を受けていないのなら、他者が受けた私の啓示は事実ではありえないと、多くの人が信じている。これが彼らにとって他者を裁く基礎となる。そうすることで、彼らは地上に臨む神の国に大きな損害を与えてしまう。」

「これが、識別力が絶対に必要な理由なのだ。あなたがたは神に逆らって戦いたくはないだろう。」

**「次のように書かれているではないか。『そこで今、申し上げたい。あの者たちから手を引きなさい。ほうっておくがよい。あの計画や行動が人間から出たものなら、自滅するだろうし、神から出たものであれば、彼らを滅ぼすことはできない。もしかしたら、諸君は神に逆らう者となるかもしれないのだ。一同はこの意見に従い』」**使徒言行錄5章38〜39節。

「例えば、私は三位一体についての明確な概要を与えなかった。しかし、もしあなたがたが聖書をよく検討すれば、三位一体に関する内容が聖書の中にあることがわかる。私の使徒たちは、私の霊に導かれて関連点を結び付け、三位一体を確かなキリスト教の教理として確立したのである。それでも、もしあなたがたが三位一体を信じないとしても、地獄に行くことはないだろう。だから、そのような律法主義を私に押し付けないでほしい。」

「ある人々は魂が非常に不安定なので、自分の周りのすべてのものを白黒の範疇に当てはめようと常に努力する。ここで私は同性愛のような非道徳的な行為を正当化し、それをグレーゾーンだと宣言しているのではない。同性愛はそのようなグレーゾーンに属しているわけではない。同性愛は罪である。」

「私が言っているのは、堅い教理を作り、それにとらわれて、すべての人々とすべてのものをその堅い箱の中に押し込め、そうした考えに同意しない人々を罪に定めることについてだ。」

「これこそがファリサイ人たちがしたことなのだ。ファリサイ人たちの種を警戒してほしい。その種を食べる者も、彼らが与えた被害について裁かれるだろう。」

「では主よ、私たちが持っている聖書から新しい解釈や啓示が出た場合、どうすれば過去の解釈と正しく比較し、見分けられるでしょうか?」

「聖書には層がある。預言、歴史、警告、知恵の教え、人間の営み、生命のあらゆる側面、健康などが含まれている。あなたがたのための時宜にかなった油注がれる言葉もあるのだ。これを神の神託とも呼んだ。イスラエルの王が戦に臨む前に、その戦いの結果について私と相談するため、預言者や祭司を呼んだものだ。これが神の託宣であり、あなたたちとわたしを妨げていた神殿の幕をわたしが破って以来、この神の託宣は、わたしを信じるすべての人に与えられた。」

「私の霊によって、人々は以前誰も考えたことのないことを、新たに観察するようになった。これは私がなすことだ。なぜなら、あなたがたが偽りの霊たちが信仰をゆがめようとしている、この危険な時代に生きているからだ。ある事柄は永遠に間違っているものがある。私はそれを明確にした。」

「では主よ、何がありのままの主の霊に導かれた聖書に対する新しい啓示で、何が光の霊に身を隠した悪魔の教理なのかを、どうすれば見分けられるでしょうか?」

この時、私はこの聖書の言葉を思い出しました。「しかし、霊は次のように明確に告げておられます。終わりの時には、惑わす霊と、悪霊どもの教えとに心を奪われ、信仰から脱落する者がいます。このことは、偽りを語る者たちの偽善によって引き起こされるのです。彼らは自分の良心に焼き印を押されており、」テモテへの手紙一 4章1~2節です。

「主よ、また説教者たちは、一般の人には見栄えがよく、聞こえもよい言葉を言うことができます。しかし、彼らが誠実で、主の内にいるのかどうか、どうしてわかるのでしょうか?」

その時、私はまたコリント人への手紙二 11章13〜14節の言葉を思い出しました。「こういう者たちは偽使徒、ずる賢い働き手であって、キリストの使徒を装っているのです。だが、驚くには当たりません。サタンでさえ光の天使を装うのです。だから、サタンに仕える者たちが、義に仕える者を装うことなど、大したことではありません。彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」

「クレア、今しがた、あなたは自分の質問に自分で答えた。『彼らは、自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう』。あなたは彼らの実を見れば、彼らを見分けることができる。簡単で明確な真理だ。実を味わってごらんなさい。その味が苦く、腐っていて、争い、非難、告発、怒りに満ちているならば、それは良くない。しかし、もし甘いなら、平和で、柔和で、親切で、静けさを運び、私との深い関係に導いてくれるのであれば、その実は良いものだ。このような平安と柔和と親切と、私との深い関係は、必ず実を結ぶ。真の義を増し加える実、罪を切り落とす実、悔い改めの実、私が求める生き方をしようとする新しい決意につながる実を結ぶのだ。ある教えが私から出たものかどうかを確かめたければ、このような実が見られるなら、それは間違いなく私から出た教えであることの証拠となる。」

「良い木が悪い実を結ぶことはない。実を味わってごらんなさい。私の愛する者よ、あなたは私と共にいて、長い間私から教えを受けてきた。だからこれらのことがわかるはずだ。なぜ疑うのか?」

「えーと、他人に教えた後で、自分が落ちぶれてしまわないようにするためかもしれません。」

「クレア、あなたの恐れを捨てなさい。あなたは私が与えた命を生きているのだ。あなたは私の祝福と承認を受けている。それ以上何を望むのか?」

「何もありません、主よ。本当に何もありません。」

「私の花嫁たちよ、私はあなたたちに簡単に見分ける方法を教えてあげた。実を味わってみなさい。論理的な思考で議論したり攻撃したりしてはいけない。あなたたちは常に本質を見失うだろう、それは果てしない質問につながり、矛盾や間違った結論に至る可能性がある。ある考えの源がどこから来たのかを本当に知る唯一の方法は、その考えが結んだ実を見ることだ。良い木が悪い実を結ぶことはない。」

「この言葉を大切にしなさい。この言葉があなたたちをすべての真理に導いてくれるだろう。」