006. 蛇あるいは魚
蛇あるいは魚
2022年7月21日
主よ、主は私たちのためであって、私たちに反対するのではないという事実をよく理解できるように助けてください。 私たちが大切に思うこと、私たちが望むことを主の手に任せることができるように助けてください。 私たちが望むことが有益なら、神様はそれを満たしてくれると信じています。 あなたが断るかと思い、あなたから逃げる私たちにならないようにし、あなたが断る理由はそれが私たちに良くないからだということだと私たちがよく理解できるように助けてください。 神様をもっと信頼できるように私たちを助けてください。 アーメン
愛する家族の皆さん、イエス様は前に私に必要な装備について話しました。 それで私はそれを探していました。 それはとても高かったです。 それで悩んでいました。
その瞬間、イエス様は直ちに私に話し始めました。
「あなたがこのプレゼントを持ってほしい。 それを持つことについて私は気分を害さない。 とても具体的な理由があるので、罪悪感などはさておき、私が許すことだから受け取ってほしい。」
私は間違った道に入らないのかはっきりしたかったんですとイエス様に答えました。 なぜなら、この品物は私が望んだものではありますが、レマの言葉を開いた時に良くない内容を受け取るようになったからです。 それで、私はイエス様がこれより小さいものを望んでいるのではないかと思うようになりました。 それで私はまた「聖書の約束」の本を開いてレマの言葉を確認しました。 私は「聖霊」を開きました。 それで私はイエス様に祈るようになりました。 大きな装備と小さな装備の中から選択することに対して受け取ったイエス様の言葉とレマの言葉で受け取ったものの間で迷っているが、私が他の人たちを騙すことにならないように助けてほしいと祈りました。
そしてしばらくしてイエス様の言うことを聞くようになったのです。 「主よ、低い心で感謝申し上げます。 私を矯正してくださってありがとうございます。 私におっしゃってくださって心が嬉しくなりました。 小さな装備に対して「聖霊」という言葉で答えてくださったもの。 どうか私を正しい道に導いてください。 イエス様が私に送ってくださった人を通じて提供されるものを通じても正しい道に導いてください。」
イエスがまたおっしゃいました。 「私はあなたを捨てなかった。 私が訂正してあげるのをあなたはよく受けた. そして私のところに来てくれてありがとう。 このような態度がすべての重要な決定をする時最も重要なのだ。 このようにして敵があなたたちを罪に導く余地を作れないようにするのだ。 クレア、道を間違えないように、もう少し早く私に来てほしい。 今度はちょっと遅れた。」
「はい、イエス様、申し訳ございません、でもちょっと怖かったです。」
「恐れ、それは罪だ。 いつあなたは私を信頼することを学ぶことができるか。 簡単ではないということは知っているが、必ず必要なことだ。 私があなたの面倒を見ている。 あなたも知ってるんじゃないか。」
「はい、承知しております。」
「私が『エマオへの道』の音楽を選んで聞かせた時、あなたは私の考えに気づいた。」
ちなみに、「エマオへの道」は、神様が私に話を聞かせてほしがられるという内容の歌です。
「だから今、私はあなたにこの仕事をしてほしいのだ。 今日でもいい。 私と一緒にいてくれる?」
「はい、主よ。方向を導いてくださってありがとうございます、本当に役に立っています」
私は座って音楽やメッセージや他の作業をしようとする時、本当にイエス様がこのように私を導いていらっしゃるということを悟らなければならない必要を感じます。 時にはあまりにも多いこと、あまりにも多くの可能性が目の前にあって、どこから手をつけたらいいのか分からない時があるからです。 だから、こうしてイエス様が私に言っていただければ、とても素敵な瞬間になります。
そこで、私は道案内をしてくれたことについて、イエス様に感謝していると言いました。 これは本当に私に役に立ちます。
イエス様が答えました。
「それがまさに私があなたに来た理由だ。 そうだ。あなたを助けに来たのだ。 信頼に向けた道のり、これは全ての心を注ぐ反応を必要とする聖なることだ。 それで多くの人が臨在祈り中に私がそこに一緒にしていることに気づかなくなるのだ。 非常に重要な決定を下す瞬間にも、私が彼らと一緒にいることを認識できず、決定的な瞬間まで私を放っておいたままになるのだ。 そうして人々は混同と失望を作り出す。 こんな時私はあなたたちがもっと早く私のところに来てくれることを願う。 あなたたちが下すべきその決定を持って、もう少し早く私のところに来てほしい。」
「臨在祈りをする時、私があなたたちと共にいるということを感じるならば、あるいは臨在祈り中に私の姿を少しでも見ることになれば、それをあなたたち自身の考えや悪魔として考えないで、私がそこに共にいるということを悟ってほしい。 あなたたちが魚をくれと祈るのに、私が蛇をあげると思うか。 これは実に適切な比喩だ。 蛇はサタンと彼の働き手で、魚は命のために良い食べ物だ。 謙虚な態度で、従う気持ちで、自分自身を信じず、本当に私を礼拝したい時、あなたたちの心を開いて私のところに来る必要があると思うか?」
「そうだ。私は誠の礼拝を愛する。 あなたたちの心が私の心と混ざり合い、あなたたちの渇望が私の渇望と混ざり合い、あなたたちが私に感謝して私に賛美し、私に対するあなたたちの信頼を宣言する礼拝。 私はそんな礼拝を愛する。 その時私があなたたちにヘビで補償を与えるか。 霊媒を送って間違った道に導こうか。 真実について確認し、明確にする代わりに、誤りと闇に導くか。 どんな神様がそのように偽りで信実の代わりをするだろうか。 あなたたちの船の唯一の穴は、自慢で、傲慢で、学ぼうとしない精神だ。 このような場合なら、あなたたちはうまく騙されるだろう。」
「だが、あなたたちが私を霊と真理で礼拝し、ただ私の意思だけを求めれば、私があなたたちを誤りに導かない。 しかしあなたたちもあなたたちの自分の意志によって深刻な失敗に陥ることを私が許したことを何年もよく学んできただろう。 しかし、このような過ち、実はこの過ちは罪ではあるが、このような過ちを踏みにじるために心からの願いと努力を傾ければ、私は確実にあなたたちに明確な方向を示しながら、間違った一歩にならないように導いてあげる。」
私たちは朝一番先に悔い改め、神様が近づくことができるように許し、また寝床に入る時も神様がそのような誤ったことを指摘してほしいと祈る必要があるようです。
「そうだ。あなたたちがどんな小さなことでも悪に染まった考えや行動に気づいて悔い改め、私のところに来て私を礼拝すれば、あなたたちは正しい方向を期待できるだろうし、あなたたちのビジョンをあなたたちの考えの中で実現していくことができるだろう。 また、そうしなければ悪魔が私を痛めることを許すことになるだろう。 あなたたちの考えを捨てて、私があなたたちを矯正してあげることを期待し、またあなたたちがこのような気持ちが真実で信実であれば、私は確実にあなたたちを正しい道に導く。」
「ありがとうございます、イエス様」
「そうだ。私はあなたたちの必需品について面倒を見ている。 私は助けに来るのであって、叱るために来たのではなく、必要な場合は責めることもあるが、必要でもないのに叱責するために来たわけでもない。 私はあなたたちをより良い方法で証明して助けるために来る。 あなたたちがこれを本気で信じることを願う。 なぜなら、これが事実だからだ。 私がそばにいることを知ってくれて、あなたたちのグループ全体を私が導いていることに気づき、私の日々を喜ばせることを願う。 そうだ。あなたたちが私の日を作ってくれるのだ。」
これがイエス様のメッセージの終わりでした。