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046. 目ではなく信仰で

目ではなく信仰で

2022年9月15日

神様、信仰の恵みをください。 私たちが霊の目で見て、最後までしっかり立っていられるように助けてください。 アーメン。

私はさっき映画「Billy Graham The Early Years」を見ました。 ビリー·グラハム牧師の友人で有名な伝道師だったチャールズ·テンプルトンに、第2次世界大戦が及ぼした影響についてかなり感銘を受けました。 彼は1936年に初めて信仰を告白し、同年に伝道師になりました。 1945年テンプルトンはビリー·グレアムに出会い、2人は友人になり、1946年には伝道旅行をしながら、一緒に部屋を使って、一緒に牧会をしました。

しかし1948年、テンプルトンの暮らしと世界観はグラハムと違う方向に進み始めました。 愛する神様が、なぜ自分が選択したイスラエルのたみ、600万人を虐殺するように放っておくのかを、じっくり考えながら、キリスト教信仰に対する疑いがますます増えていきました。 ビリー·グレアムの答えは「それは神様がなさったのではなく、人間がしたことだ」でした。 彼らは別れる道に向かっていましたが、その過程でグレアムは絶えず神様に答えを求めました。 ある静かな夜に神様はこう答えてくださったそうです。 「それはあなたの信仰次第だ。 必要なのは信仰だ。」

その後、多くの歳月が経って、テンプルトンが臨終を控えた状況で、ストローベルという「The Case for Christ」の著者とインタビューをしたが、テンプルトンはイエス様が懐かしいと話し、イエス様を心から愛していると話しました。 イエス様はすべての善い理由だと言いました。

イエス様が話し始めました。

「私に対する信仰は、配偶者に対するまことの献身と忠実さを伴う。 この献身と忠実さは救いのために、そしてタダで流れ出る私の恵みの宝物のために必要な要素だ。 信仰は確かなものだ。 信仰は寛大さと慈悲を通じて働き、寛大さに栄養を与えるほど信仰も育ち続ける。 最も重要なことがあるが、信仰は天国を味わうことと同じだ。 だからあなたたちの心の中に信仰の根がでて、成長させ、私に対する渇望が育つようにすることを願う。 そうすれば天の善いものがあなたたちの魂の中に染み込み始めるだろう。」

「信仰を持つということは、私があなたたちを助けて世話するという事実を、あなたたちの全てをかけて信頼する、ということを意味する。 あなたたちに何が一番いいのか、私は知っている。 しかし、あなたたちは心から私の計画を抱え込まなければならず、私を完全に信頼しなければならない。 あなたたちが私に対する信仰を持って、私の戒めに従う時、それがまさに人生と行動を通じてあなたたちの信仰を表現することだ。」

「信仰は心の言語だ。 信仰は希望を表現することだが、認識できる考えの水準を越えて進むことだ。 あなたたちが捕まえなければならないすべてのことは、あなたたちの神様に対する信仰の中で安息することだ。 安息は人や、物や、所有物のようなものに、求めるものではない。 世界は醜悪さ、残忍さ、不義に満ちている。 そして以前には見られなかった残酷な戦争が近づいている。 愛する人たちよ、心を引き締めて、あなたたちの心が冷たくならないようにし、あなたたちが見ることと経験することによって、私から離れるな。 あなたたちが私を頼りにすれば、私があなたたちを強くさせて勇気をあげる。 この苦難の時、あなたたちの信仰は他の人々を私に導くだろう。 私がおこなった姿に似てついてくるあなたたちは、最も厳しい試練の時期にも善いことをするだろうし、誘惑に打ち勝つことができるだろう。」

これがイエス様のメッセージの終わりでした。

マルコによる福音書11章22節から24節。

そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。

はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。

だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。

アーメン!