116. 存在としての祈り
存在としての祈り
2023年2月14日
主が御自分の忍耐と愛で皆さんの愛しい心を祝福してくださることを祈ります。
「主よ、一日中祈りたかったのですが、私の心があちこち散らかっていて、あまりにも雑然としていて祈ることができなかったのに、こんなに早く答えてくださり、私をつかまれて、主の心に引き寄せてくださってありがとうございます。」
イエス様は答えてくださいました。 「愛する花嫁よ、あなたがしなければならないことが多くなり、必要なものが見つからずイライラして走り回ることを望まないので、きれいで整理された状態を維持してほしい。それが良いのではないか?」
「はい、主よ、本当にそうです。」
「もう少しやれば、家がきれいで有益に整理されるだろう。春が来る前の春の大掃除は良い練習だ。準備完了、整理完了のようなものだ。」
「イエス様、あなたを抱きしめたいです。」
「あなたは一日中、私を抱きしめていた。」
「努力はしました。」
「いや、あなたは成功したのだから、それを理解して安心してほしい。私はあなたが毎日このように祈ることを望む。」
「私が祈ったんですか?」
「これが祈りだとは知らず、気づかないんだね。」
「そうですね、私は数回を除いて、実際にお祈りしたこともないので、実際には祈ったとは思いません。」
「いいえ、私の愛よ、これは存在としての祈りだ。このように私を抱きしめることは、実際に真の祈りであり、私に対するあなたの認識と必要、そして私に対するあなたの感謝と栄光の宣言なのだ。まるであなたがこう宣言しているのである。「イエス様、あなたが私を抱きしめてくれなければ、私は一刻も生きることができません。」あなたの考えと優先順位で私を最優先することによって、あなたは祈り、宣言するのである。私はそのような態度を祈りとして受け入れ、私から離れることに耐えられず、深い愛に溺れた一人の魂の祈りとして受け入れる。」
「主よ、この言葉が真実であることを願っています。」
「真実でなければ、私はそんなことを言わないだろう。クレア、私は自分の唇でお世辞を言わないこと、真実だけを話すことを知っているでしょ?」
「主よ、私は他の人を見たり、聞いたり、読んだりしたくありません。 この状態は、私が永遠に保ちたい恵みです。」
ちょっと付け加えると、私はニュースや戦争などのニュースを知るために、ユーチューブの誘惑すら受けないようになったので、上のような言葉を主にお祈りしたのです。
「サタンはすでにその恵みを奪おうと陰謀を企てている。愛する者よ、それを守ってほしい。敵は着実に努力している。ある魂が少しの恵みだけで悪い習慣を断ち切るのを見るとき、私はその魂の決意と粘り強さに対して報いを与える。たとえ自分が望むほど完璧ではなくても、そう変わろうと努力するほど十分に望む心があるため、私はその旅路をより安定して歩むことができるように、新しい恵みで報いる。その魂は、私が恵みを与えた時、その恵みを守れることを証明したので、私は彼らにさらに恵みを与えるのである。今、サタンは必ずそれを盗もうとするので、それを守るために戦わなければならない。」
「私の子たちよ、変わりたいと思いながらも決断力の欠如を感じるにもかかわらず、最終的にその決断をするとき、私はとても嬉しく思う。 その背後には、あなたが本当に本当に変わりたいという気持ちがあることを確認するために、私が許す誘惑にどのように対処するかを私は見ている。あなたがしばらくの間忍耐し、多くの誘惑を乗り越えたとき、私はあなたの勝利を数え、あなたの努力と決意によって築かれた恵みをあなたに与える。これは、あなたたちがはしごの上に一段上がったことを意味する。」
「あなたたちに配置された悪魔たちも、このようなあなたたちの姿を見ているが、彼らが見たことを上司に報告すると、上司はあなたたちがつまずき、その恵みを諦めさせるように状況を作り出す。」
「主よ、私はニュースを見ないので、心がずっと純粋になった気がします。」
「汚いものからあなた自身を遮断したからだ。私を信じなさい、その汚い粘液があなたの心に付着していない、あるいは心の中で流れていない状態のあなたの心を抱きしめることが、私にとっては喜びである。」
ここで主は私がよく見ていた代替ニュースについて語っておられますが、そのようなニュースは泥のようにくっついて私たちの考えを汚染し、タールのように私たちの心を恐れと絶望を生む悲しく醜い世の中の出来事にとらわれさせます。祈るべき題材を見つけるには少し役立ちますが、行き過ぎる場合も多いようです。
「よく言った。今、あなたは私から離れるのが好きな「好奇心」と「知らなければならない!」を避けるのに役立つ、目覚めた良心を持っている。あなたが私に執着すればするほど、ますます私に似ていくだろう。この姿は、敵が世の中で最も望まないことだ。敵の任務は、あなたたちを私から遠ざけ、あなたの信仰を弱め、その場を悪に導く空虚な知識に置き換えることである。」
「私の子たちよ、あなたがたが聖なる者となるためには、聖書の言葉通り、あなたの心から汚れたものを捨て、純粋で善良で美しいものを黙想しなければならない。」
フィリピの信徒への手紙4章8節にある箇所です。
「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」
そして文脈上、この言葉のすぐ前後にパウロはこう言っています。
(フィリピの信徒への手紙4章7節)そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト․イエスによって守るでしょう。
そして9節はこう言っています。
(フィリピの信徒への手紙4章9節)わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。
ああ、本当に美しいですね!
神様の中で享受する平安とは、ニュースを見た後に感じる感情とは全く違います。ユーチューブを見ると、むしろ喜びを奪い、虚偽の報道やゴシップに接することになり、携挙を切望するようになります。愛する皆さん、道に迷い、混乱して地獄に向かう魂がいる限り、私たちはこの地を離れることを切望することはできないでしょう。 もし主が私たちをこの地から救い出すことを選択するなら、それは私たちがこれ以上苦しみたくないという私たち自身の利己的な理由によるものではなく、主の考えと理由による主の選択でしょう。
主は忠実なことに、私たちが時間をかけてニュースのようなものを見なくても、祈ることができるように、ニュースを私たちに知らせてくださいました。 だから、私たちはまだ世に属していなくても、世の中のために祈ることができるようです。 以前は世の中の出来事について知りたくて、もっと世に属していましたが、今は主がその強迫観念から私を救い出してくださったので、主は私たちが祈りたいと思うまさにその出来事について、人々を私たちに送ってくださり、また、世界中の出来事についてもっと多くの幻を持たせてくださいます。
もし皆さんも私のようにニュースに夢中になっているのであれば、皆さんにも希望があり、主はあなたがたが祈りたいことを知らせる方法を見つけるでしょう。
愛する家族の皆さん、主の祝福を祈ります。一緒にいてくれてありがとうございます。
あなたの考えを聞きたいので、コメントを残していただければ幸いです。