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504. 主の御声を聞くのに役立つ方法と、臨在祈り(パート1)

主の御声を聞くのに役立つ方法と、臨在祈り(パート1)

2015年8月19日

Mark Virkler, Communion With God Ministry

主の懐に留まる皆さん、主は皆さんを祝福なさいます。

お知らせしたいことが一つあります。皆さんの中で何名かの方が私たちにメールを送ってくださいましたが、私たちはまだ返答する機会を得ていません。今月中に返信を受け取れない状況になるかもしれませんが、この点についてお詫び申し上げます。私たちは最近やることが多いからです。しかし来月には返答いたします。

今日、主が分かち合いたいと望んでおられることを、皆さんと分かち合いたいと思います。昨日、主は私に「Communion With God Ministry」のMark Virklerの教えを分かち合うことを望んでおられました。マークは、人々が神様と疎通できるよう導く、とても特別な賜物を持っています。この疎通は、双方向の対話、つまりやり取りする対話の疎通を指します。興味深い事実は、彼が教えている内容の非常に多くの部分が、私が今月皆さんと分かち合ったことと正確に一致しているということです。しかし、彼は少し異なる角度からアプローチしています。彼の方法は皆さんに本当に役立つと思います。主は今日、私に簡潔に要約された文書を分かち合うよう求めました。PDFで、ウェブサイトに掲載しておきました。この文書の教えの内容に私の経験を付け加えて分かち合いたいと思います。さて、始めます。

神様との疎通のための極めて静かな時間と場所に入るということについて、私は分かち合ってきました。これは古代からいつでも適用できる方法です。もしあなたが神様と対話することが不可能だと確信しているなら、あなたは別の場所を探すのが良いでしょう。なぜなら、このチャンネルでは疎通に対する神様の御心は確固たるものだからです。そして今、主は別の教師であるマークを紹介してくださり、私たち全員が神様の声を聞き、話すことができるという単純さと約束を、皆さんと分かち合いたいと望んでおられます。主はこの事実について確固たる御心を持っておられます。皆さんの中で、私は特別な特権を持っていると考えている方がいるなら、主はあなたもそうだということを確信させてくださいます。

マークは、次のような簡単な証言から始めます。

「わたしはベッドで何度も寝返りを打ち、眠ることができませんでした。このような考えがずっと私の頭の中で巡っていました。『今日、もしわたしが死んだらどうしよう?わたしは天国に行く準備ができていない。』この考えを振り払うことができなかったわたしは起きて1階に降りて行き、両親が集会から戻るのを待ちました。両親が戻ってきたとき、わたしは救われたいと宣言しました。両親は私をすぐに牧師の家へ連れて行きました。そこで牧師は私に神様の救いの計画を説明してくださり、罪を告白する祈りをするように導いてくださいました。そのとき私は15歳で、イエス様を私の心の中にわたしの救い主として受け入れました。」

「その夜、私の頭の中に巡っていた考えは神様の考えであり、神様が私に語っておられることでした。私を導き、神の国へと誘っておられる御声だったのです。神様の声が私の頭の中に自然と湧き上がる考えとしてやって来たのです。しかし、その後10年間、切に主の声をはっきりと聞くために熱心に努力をして悟るまでは、この方式が神様の声を聞く優先的な方法であるとは定義できませんでした。」

付け加えるなら、マークは大学に行って学位を取得した後、生涯を神様の声を聞くことに費やそうと決心しました。なぜなら、彼は主の声を聞くことについて本当に本当に必死だったからです。皆さんの中で多くの人が、このように考えるかもしれません。「わたしはまだ主の声を聴けていない」と。しかし、実際、あなたは主の声を聴いているところなのです。ただ認識できていないだけなのです。人々が主の声を聞き、それを悟るようにさせる点において、マークは非常に有能です。

「キリスト教はすべての宗教の中で非常に独特な点を持っています。創造主である神様との個人的な関係を教えているのですが、それは今から永遠にわたる個人的な関係を教えています。イエス様はこのように宣言されました。(ヨハネによる福音書 17章3節) 『永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス․キリストを知ることです。』不幸にも教会でも多くの人が主とのこの親密な交わりと疎通の素晴らしい恵みを失ってしまいました。なぜなら、彼の声、御声を認識する能力を失ってしまったからです。」

「ヨハネによる福音書10章27節で主は私たちに約束されました。『わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。』あまりにも多くの信者が主との親密な関係について渇望しています。この親密な関係だけが彼らの渇いた心を潤すことができるからです。私こそ自分の牧者の御声を悟る方法を知らなかったそのような羊の一人でした。私は神様との霊的な深い親密さについて飢え渇いていましたが、その方法を見つけることができませんでした。そのようにクリスチャンとして11年目を過ごしていたある日、私は自然に湧き上がるこのような考えを持つようになりました。『わたしは神様の声を聞く方法に集中する必要がある。わたしの人生の1年をこのことに捧げるべきだ。』ですから私はこの考えに反応することを決心し、1年間を神様の声を聞くことを学ぶために献身することにしました。このように時間を捧げさせたこの考えは私自身も知らず知らずのうちに、私に語っておられる神様からのコーリングだったのです。」

ここで、マークが聞いたこの考えは「自然に湧き上がる考え」でした。そしてそれは実際には神様の声だったのです。しかしその当時、彼はそれに気づいていませんでした。ですから、彼はこのようにしました。

「その年、主は4つの簡単な鍵を明らかにされました。それはすべて、ハバクク書2章1節から2節にありました。これを通して、主の御声という宝の扉が開かれるようになりました。この4つの鍵を使って、私は毎日、主の御声を簡単に聞けるようになりました。これは私の信仰の旅路において、最も決定的な転換点であり、45年間クリスチャンとしての人生を生きてくることができました。4つの鍵について、皆さんと分かち合います。皆さんも試してみて、果たして皆さんに同じことが起こるのか、確認してください。」

さて、Markがその鍵について説明を始めます。

鍵 1:あなたの心の中で聞こえる神様の御声は、しばしば「自然と湧き上がる考え」の一つの流れとして来ます。

ここで私は一つの例を分かち合いたいと思います。かなり何度も私は自分自身に突然このような考えが浮かぶのを目にします。「今、私は店に行って卵を買わなければならないようだ。それが明日の朝に必要だ。」そして私は店に行くでしょうし、そこで世話が必要な誰かに会うように主は導かれるでしょう。そして、この自然と湧き上がった考えが、実は神様の御声であったという事実を悟るでしょう。祈りが必要だった一人の魂と私を、偶然会わせるように主が設定しておられ、このような御声を聞かせてくださるのですね。

「ハバククは、自分に語りかけられる神様の御声を知っていました。(ハバクク書 2章2節) 主はわたしに答えて、言われた。幻を書き記せ。走りながらでも読めるように、板の上にはっきりと記せ。エリヤは、その御声が小さく繊細な御声だと描写しています(列王記上19章12節)。私の中でも、神様が語りかける御声が聞こえることを、常に経験します。神様の御声は、自然と湧き上がる考え、あるいは考えの流れとして聞こえるということを、私は悟りました。」

「例えば、車を運転していて、ある人のために祈るべきだと感じることがありますよね?あなたは、これがあなたに祈るようにとおっしゃる神様の御声だと信じませんか?神様の御声は、どのような種類の音でしょうか?耳で聞くことのできる音でしょうか、それともあなたの心の中で自然と湧き上がる考えでしょうか?」

本当に良い点ですね。人々は、私が主の御声を非常に鮮明に聞くと思うようです。そうですね。時々、私は本当に主の御声を非常に鮮明に聞きます。しかし、ほとんどの場合、私も自然と湧き上がる考えの流れを通して聞きます。今日も私が祈る時、突然何かが私の心の琴線をつかむのを感じました。私はそれが主であるということを悟り、主が御言葉を与えようとしてくださることを悟りました。そこで私は自分の考えの焦点を、その方に合わせました。まるでラジオの周波数を合わせるようにです。そして主は私におっしゃいました。すぐに私はその方の顔も見ることができました。暗いガラスを通して見るようにです。まるで一つの部屋で私がこちらにいて、向こうに主がいらっしゃるかのように、あるいは私の隣に座っているように見えるのではありません。私の目の片隅で、かすかに主がおられるのを見ます。私がメッセージを書き留める時、私はその方の顔を見ます。時には私のコンピューターの隣の小さなスタンドの横に、少し寄りかかっておられるのを見ます。笑っておられ、語っておられます。私が何かの点や単語で止まってしまう時、彼は私が書き続けられるまでそれを繰り返されます。これはあまりにも自然と湧き上がる考えの流れであり、柔らかな考えの流れです。今、皆さんと私が対話をするように交わす、明確な音ではありません。主の御声が常に耳で聞くことのできる、そのような音ではないのです。事実、ほとんどは自然と湧き上がる考え、あるいは考えの流れなのです。

「私たちが自然と湧き上がる考えを通して、霊的な対話を主と行っているかについては、経験が説明してくれます。」

あなたが誰かと一つの部屋にいる時、突然彼が何を考えているのか、あなたが知る経験をしたことがありますか?これはあなたにとって、それほど楽しい経験ではないかもしれません。しかし、私はこの同じ経験をします。あるいは、あなたが夫と一緒にいる時、突然あなたがハンバーガーのようだと感じた時、夫がこのように言います。「私は今夜、本当に私がハンバーガーみたいだ。」このように自然と湧き上がる考えは、二人の人が同じ時に同じことを考えるようにさせることもあります。あるいは、あなたが誰かや彼の状況について案じている時があります。あなたの心にその家の助けとなる何かをすべきだと考える時があります。その後にあなたの母や友人がその家に行ってこのように言います。「私はここで、あれこれのことをしなければならないだろうと思った。」そしてあなたも言います。「私がそのことを考えていたって知ってる?多分、私たちはその家のために祈らなければならないと思うし、あるいは彼らに電話をかけるか、訪ねてみるべきだと思わない?」これがまさに主の御声なのです。これは自然と湧き上がる考えの流れなのです。霊的なレベルでの会話なのですね。このように神様の御声は、自然と湧き上がる考えと、ある感情の流れを通して私たちに来るということを悟ります。ある時は、幻とビジョンを通しても来ますよ。

「聖書は、多くの面でこの事実を確認してくれます。『取りなし』という意味のヘブライ語の単語である『paga』の意味は、『偶然出会う機会』あるいは『偶然の出会い』です。神様が私たちの心に、取りなしの祈りする人々を置かれる時、pagaを通してそのことをなさいます。つまり、偶然出会う考え、私たちの心の中に突然浮かぶ考えを通してなのです。私たちはこの偶然出会う考えについて深く考えながら生きてきませんでした。しかし、これは神様が私たちに送ってくださった、明確な目的を持った御声なのです。」

あなたが、ある人を2〜3日前に考えていたのですが、その人から突然電話がかかってくる場合を、どれほど多く経験しましたか。「わあ、あなたについて考えていたんだ!」これは、自然に湧き出る考えを通して行われる、霊的レベルでのコミュニケーションなのです。これがまさに、神様の御声の姿です。この御声は非常に穏やかですが、あなたの関心を惹きつけます。そして、明確でもあります。

「それで、あなたが神様の御声を聞きたいと願う時、偶然に出会う考えに周波数を固定してください」

さて、あなたはあなたのラジオの小さな周波数を持つようになりました。犬の吠える声、赤ちゃんの泣き声、車の音に向けた周波数は消して、偶然に出会う考えの流れに周波数を固定してください。非常に穏やかなレベルに、この周波数を固定してください。

「自然に湧き出る、あるいは流れていく考え。」

あなたはこれに、心を集中してください。このような考えがあなたの心の中で漂う時、注意を集中してください。

「悪魔の考えも、自然に湧き出る考えを通して、私たちにやって来ます。それで、主は私たちにこのように命じられたのです。(コリントの信徒への手紙二 10章5節) あらゆる思惑をとりこにしてキリストに従わせ。 私は、私たち全員が、自然に湧き出る悪魔の考えが私たちにやって来るのを経験したと確信しています。しかも、祈りの時間と礼拝の時間の真ん中で、攻撃してきます。私はこのように、分別します。分析的な考えは私の考え、自然に湧き出る善い考えは聖霊様の考え、自然に湧き出る悪に属する考えは闇の霊たちから来ると結論を出します。」

さて、分別についてご紹介します。私も、どのように敵の声を分別するかについては、皆さんと以前分かち合いました。マークはこのように教えます。

「神様の考えは、聖書の御言葉と軌を一にします。そして、その方の性質を取った名前と一致します。慰める者、助言者、教師、命を与える者、癒やす者、救い主。その考えは、人を高め、励まし、慰めます。その御言葉は、純粋で、平和をもたらし、穏やかで、道理にかなっており、慈悲に満ち、善い実を豊かに結び、揺るぎない確固たるものがあります。(ヤコブの手紙 3章17節) 上から出た知恵は、何よりもまず、純真で、更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています。偏見はなく、偽善的でもありません。」

主の御声の内容の最も主な特徴は、平和です。平和で、しかもあまりにも平和です。そして、その御声の感触は穏やかです。非常に非常に穏やかです。

「悪魔の考えは、彼の名前と軌を一にします。告発者。」

あの人はこのようにしている。あの人は罪を犯しているのだ。あの人の中にある悪を見よ。このような考えが告発する考えです。

「敵対者、つまり泥棒は、来て奪い、殺し、滅ぼします。彼の考えは、責めを加え、絶望をもたらし、拒絶、恐れ、疑い、不信です。ほとんどは、苦痛を与えます。嫉妬と利己的な野望を、引き起こします。(ヤコブの手紙 3章14~15節) しかし、あなたがたは、内心ねたみ深く利己的であるなら、自慢したり、真理に逆らってうそをついたりしてはなりません。そのような知恵は、上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものです。」

一言で言えば、悪魔の考えは私たちを絞り出して、平和から遠ざけ、心配の形で私たちを形づくっていきます。これが、私たちの考えの中に漂っている悪魔の考えの、ナンバー1の特徴です。それで、私が皆さんに何度も申し上げたように、もし突然皆さんが恐れを感じるなら、まさにその場所で悪魔が恐れをあなたに注入しているのです。まさに悪魔の声なのですね。

マークは、ハバクク書2章1節を用いて、神様の御声を聞く方法を紹介しています。

「ハバククがこのように言っています。(ハバクク書2章1節) わたしは歩哨の部署につき、砦の上に立って見張り、神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。ハバククは、神様の静かで、内面的な、自然に湧き出る考えを聞く方法を知っていたのです。彼はまず、静かな場所に行かなければなりませんでした。静かで穏やかな彼自身の考えと感情の場所へ行かなければならなかったのですね。(詩編 62章5節) わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている。詩編62章5節は、私たちの魂が主の前で穏やかでいなければならないことを勧告しています。私たちが、私たちの肉体と私たちの考えを穏やかにした時、経験できる流れがあります。それは、私たちの霊の内奥にある、深く内面的な、自然に湧き出る考えの流れです。」

「ああ、私はこれをしなければならなかった、あれをしなければならなかった。これを忘れてしまったな。私はガスのバルブをつけっぱなしにしたのではないか?」このような考えが、際限なく頭の中で起こることがあります。これが、まさに私たちの考えなのです。さて、マークが言っていることは、私がDwelling Prayer(臨在祈り)について教えたことと同じ文脈の内容です。

「静かな賛美の音楽と共に、主を愛する時間を持つことは、この静けさに到達できる非常に効果的な方法です。(列王記下 3章15節) 今、樂を奏する者を連れて來なさい。」樂を奏する者が演奏をすると、主の御手がエリシャに臨み、

私の場合は、ほとんど常に賛美を通して主へ近づきます。これは、私が用いる方法です。必ずしも賛美の音楽を通して、礼拝する必要はありません。主の御声は、即座に聞くこともできます。あなたの心の中で何かが引きつけられるのを感じる時、その時、即座に聞くこともできるのです。まるで主が、あなたの肩をトントンと叩きながら、おっしゃるようですね。「あなたと少し話をしたい、私に周波数を合わせてくれるかい。」

「礼拝後、私の内面は静かになり、その時、私は自分を開き、自然に湧き出る考えの流れに周波数を合わせます。」

主が音楽について私に、おっしゃってくださったことがあります。音楽は人を、彼自身から移動させるということです。音楽が強力な力を持っている理由が、これなのです。音楽はあなたを善い領域へ移動させることもできるし、悪い領域へ移動させることもできるからです。音楽は確かにあなたを、あなたの現在の状態の考えから抜け出させる力があります。

「私がしなければならなかったことで、忘れていたことを思い出すと、私はそれを後でできるように書き留めておきます。もし罪や何の価値もない考えが浮かぶと、私は徹底的に悔い改めます。小羊の尊い血で清められ、彼の正しさの服を身につけます。そのようにして、神様の前できずのない自分を形づくっていきます。(イザヤ書 61章10節) わたしは主によって喜び樂しみ、わたしの魂はわたしの神にあって喜び躍る。主は救いの衣をわたしに着せ、恵みの晴れ着をまとわせてくださる。花婿のように輝きの冠をかぶらせ、花嫁のように宝石で飾ってくださる。(コリントの信徒への手紙二 1章22節) 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に󰡒霊󰡓を与えてくださいました。

今、マークはとても重要な要点に言及しています。なぜなら、私は主とダンスを踊る時、いつもきずも汚れも何一つない美しいドレスを着ているのを見るからです。私は完全に清く、輝いています。主は私たちがダンスを踊る時、私にそのようなイメージを見せてくださいます。これは、私が主の正しさを身につけている自分を見るのに役立ちます。私のためにその服を選んでくださる方が、まさにその方です。私に関してすべてが完全です。すべてが完全です。マークのこの文章を読んだ後、主が私にそのようなイメージを見せてくださる理由が、主の正しさの中にある私自身を見てほしいと望んでおられ、主の前に私自身がきずも汚れも何一つない存在だと見てほしいと、望んでおられる主の御心を知ることができました。だから私はその方の中で憩うことができます。アダムとエバは裸であることで恥じて逃げましたが、私たちは逃げる必要がなくなったのです。

「鮮明な集中は、最も純粋な考えの流れを生み出します。神様の純粋な御言葉を受け取るためには、私の心がかなり適切に集中していることが重要です。そのようにして、静かで研ぎ澄まされた心の中に、私の目を捉える一つのビジョン(幻)から直感的な一つの流れが生じるからです。」

さて、マークはビジョン(幻)について言及しています。

「私の目を主に固定する時、主から直感的な考えの流れが生じ、その考えは純粋なものです。しかし、私が視線を自分の心の何らかの欲望に置くと、その欲望によってその直感的な考えの流れは影響を受けます。純粋な流れを維持するためには、私は必ず静かに注意深く、私の視線を主に固定していなければなりません。(ヘブライ人への手紙 12章2節) 信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。

この御言葉はとても興味深いです。私が皆さんと分かち合った「臨在祈り」「Dwelling Prayer」の内容と一致していませんか?清い心を持つことが、他の何よりも絶対的な最優先事項です。(マタイによる福音書 5章8節) 心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。わぁ〜、マークが言っていることとあまりにも完璧に一致しています。清い心とは、すなわち自分自身の議題に焦点を合わせない心です。主だけに焦点を合わせ、主の重要な議題に焦点を合わせる心が、清い心なのです。この心があなたが主を見ることができるようにします。

今、私たちは主が私たちの心と考えの中でどのような姿で現れるのかについて、洞察力を持つようになりました。

「神様の純粋な御言葉を受け取るためには、私の心がかなり適切に集中していることが重要です。そのようにして、静かで研ぎ澄まされた心の中に、私の目を捉える一つのビジョン(幻)から直感的な一つの流れが生じるからです。」

あなたの目の前に主が与えてくださるビジョンが見えると、そこがまさに考えの流れが出てきている場所です。あなたが一つの絵を見るようになると、例えば、カタログのドレス、あるいは車、あるいはゴルフクラブのセットであることがあります。あなたの視線は、いまだ世に集中しているのです。あなたの直感的な考えの流れが世の中から出てきているのです。もしあなたの心の中の視線があなたの欲望に固定されているなら、直感的な考えの流れはその欲望によって影響を受けるのです。ですから、純粋な流れを持つためには、必ず静かに注意深く、主にあらゆる視線を固定しなければなりません。

マークも主から来る純粋な考えの流れを得るために、彼のすべての視線を主に固定するのです。

「改めて申し上げますと、王である主を静かに礼拝することを通して静けさに至り、かなり容易に主の考えの流れを得ることに成功するのです。主が教えてくださった祈りを始まりとして、祈りを始めるのも良い方法となります。『天におられる私たちの父よ、御名が聖なるものとされますように…』主は私たちが祈る時、目を上げて父を仰ぎ見るようにと教えられました。私たちの人生の問題を抱えて祈りを始めないことです。目を上げて天におられる主を見つめながら、私たちの祈りを始めるのです。」

とても美しい教えです。私はこれを本当に気に入っています。私が賛美の音楽を聴き始めた時から、私はすぐに目を上げ、私の目で主を仰ぎ見ます。なぜなら、主があそこにいらっしゃることを私が知っているからです。主が私の目に明確に現れるまでは、主は常に私の右側におられます。

鍵 2: あなたの目をイエス様に固定し、ビジョン(幻)を求めてください

「ハバククはこのように言いました。(ハバクク書 2章1節) 神がわたしに何を語り、わたしの訴えに何と答えられるかを見よう。ハバククは祈りながら、実際に神様から来るビジョンを待っていたのです。」

私も祈る時、このようにします。ビジョンを求め、待ちます。なぜなら、イエス様があそこにいらっしゃることを私が知っているからです。

「聖書の御言葉が今も生きて働いていることを私は信じているので、私は私の心の目を上げて霊の世界をのぞき込み、私が見ることができるものを見るように求め始めました。」

私たちが使う方法が、互いに非常に似ていることを、皆さんは理解しておられますか。互いに似ているのには、理由があります。これらの方法は、確実であり、聖書的だからです。マークの教えと、私が分かち合った「臨在祈り」(Dwelling Prayer)の間には、あまりにも多くの類似点が存在することは、大変興味深いことなのです。

「ダビデがしたことに従ってください。心の目を使って、彼がしたことに倣うことから始めるのは、良い方法です。(使徒言行録 2章25節) ダビデは、イエスについてこう言っています。わたしは、いつも目の前に主を見ていた。主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。詩編を見ると、さらに詳しく説明がなされていますが、これはダビデの決断であり、絶え間ない霊的世界への訪問ではなかったことが分かります。(詩編 16章8節) わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」

私の日常生活の中で、少し笑ってしまうことがあります。私が店に行ったり、あれこれと用事を済ませて消耗した時、自分自身にこう考えます。「主は今ここにいらっしゃるのだろうか」と、そして私は、目のあちこちを探してみます。すると、主が私の隣におられるのが見えます。安全ベルトなしで、私の右側の助手席に座っておられるのが見えます。主がいらっしゃるか確認するために、私の思考の焦点をその方に合わせようとすると、その方はそこにいらっしゃいます。

あなたの中に主が常に存在しておられるかどうかを、見て、確認することは、重要なことです。なぜなら、主は本当にあなたの右側におられるからです。聖書の多くの箇所が、あなたの右側におられるその方を描写しています。非常に多くの箇所に登場します。

パート1の動画はここまでです。