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583. 私の預言者たちを訓練する方法

私の預言者たちを訓練する方法

2016年3月21日

大切なHeartdwellersの皆さん、今夜、主が私に一つのメッセージをくださいましたが、実は私は初め、本当に厳しい試練の中にある方々を助けるために、文章を書こうとしていました。書き始めると、主が割り込んで御言葉を語り始められましたので、その内容を皆さんと分かち合いたいと思います。

私はこのように書き始めました。

「すべてのことには神様が定められた秩序があり、神様は統治者から牧師に至るまで、そして町の労働者が都市の上水道を修理することまで、すべてを見守っておられます。」その時、私はマンホールで働く男性たちの幻を見ました。

そして、イエス様が御言葉を語り始められました。「一人一人には、私から受けた特定の任務を遂行せよとの命令が与えられている。各自は私から訓練され、その召命の場で役割を果たせる能力を備えることになるのだ。召命が大きければ大きいほど、訓練はより長く、より深い清めの過程を経ることになる。30階建ての建物の基礎にある欠陥は災厄を意味するが、その欠陥が2階建ての建物の基礎にある場合は、何の影響も及ぼさないこともある。だから、より高い建物の場合は、建物が持ちこたえ、そこの居住者を死なせないようにするため、より入念に準備しなければならないのだ。」

「私の働き人たちにも同じことが言える。私が与えた賜物は、馬車を安定的かつ安全な速度で引いていくため、うまく調節して用いられなければならない。馬がくつわに合わせてよく訓練されていなければ、不意に飛び出したり、暴れたり、むやみに走り出したり、木々の間をかき分けて走ったりして、馬車と自分自身を破壊するだろう。だから、働きのための準備と訓練は、骨の折れる長い過程になることもあるのだ。」

「私のしもべたちよ、生きておられる神の御手に落ちるのは恐ろしいことだ。私の賜物は、軽々しく扱われたり、おもちゃとして扱われたりするものではない。私の賜物には用いるべき方法と、用いてはならない方法がある。そうでなければ、私の賜物は助けになるどころか、害を及ぼすことさえある。賜物を持つことは、始まりに過ぎない。その次に、その道具をどう用いるかの訓練を受けなければならない。外科医が手術の方法を学ぶために、長時間の訓練を経るように、私の霊的な外科医たちもまた、長い時間をかけて形作られる過程、時には非常に個人的に形作られる過程を経なければならない。まだ医学部の1年生さえ終えていないのに、メスを握って手術チームに執刀方法を指示することなどできないのだ。」

「私の賜物も同様だ。手順、準備、訓練、人格形成が必要であり、この過程において慎重さは非常に貴重な要素となる。慎重さは、患者を保護するだけでなく、どこに、どのように、どれだけの薬を用いるか、他の分野とどう協力して患者を完全な健康状態に導くかを知っていなければならない。私はあなたたち皆が、最も大いなる賜物を用いることを願う。しかし、あなたたちが私に仕えに来る時は、多くの苦難を経験する覚悟が必要だろう。初めのうちは、なぜある事柄がなされたり、なされなかったりするのか理解できないだろう。だが、あなたたちの訓練がほぼ終わる頃には、その試練の時がなぜ自分たちに必要不可欠だったのかを理解し、過去を振り返ることができるだろう。」

「私の賜物が、誤った手や、訓練されていない者の手に渡れば、それは時限爆弾のようなものだ。外科医が学ばねばならない教訓には多くの層がある。健康な身体組織と病んだ組織をどう区別するのか、どれだけ除去し、どれだけ残すのか、それを除去すれば身体の他の部分にどんな影響が及ぶのか、患者をどう麻酔させ、手術の準備をさせるべきか、治癒の過程でこの処置がどう作用するのか、どんな合併症が起こりうるのか、どんな感染症が体を蝕み、手術が成功したにもかかわらず命を危険に晒しうるのかを、知っていなければならない。見ての通り、魂を扱うこともこれと変わらない。魂の成長には多くの層があり、それぞれの層は細心の注意を払って扱われなければならないのだ。このように、魂を癒す者は、体を癒す者と同じくらい多くの訓練を受けなければならない。」

「各人は異なる権威を持つ。病院管理者の権威は、調理師、看護師、清掃員、警備員、外科医、および救急スタッフが持つ権威とは異なる。各自はそれぞれの訓練を受け、自身の専門分野で一定水準の責任を達成したため、その管轄下で起こることへの責任を負うことになるのだ。」

「調理師が看護師に薬の投与方法を指示することはできず、管理者が外科医に手術の方法を指示することもできず、また麻酔科医が清掃員に床の掃除方法を教えることもできない。その逆も然りで、清掃員が麻酔科医に薬の投与方法を教えることなどできないのだ。」

「私の国でも同じだ。すべての人には定められた任務がある。すべての人に自身の専門分野があり、すべての人が互いの権威を尊重する時、私の国は臨み、私の御心は成る。変化が必要な時、私は私の代理人を遣わし、部門の長に近づいてメッセージを伝えさせる。メッセージを伝えた者は、そのメッセージがどう実行されるか、あるいは実行されたか否かについてさえ、責任を負わない。それは私の仕事だ。悔い改めは私が与える。私は誰にも、私のアドバイスを受け入れよと強要せず、それをうまく用いよとも強要しない。私はただ助言を与え、その務めにふさわしい者が、その助言をどう用いるかについて正しい決定を下せるよう、状況を整え、許すだけなのだ。」

「私の預言者たちと仕える者たちにも同じだ。彼らは私のメッセージを受け取ることができるが、強要や様々な条件なしに、私のメッセージを伝える方法を訓練される。これには繊細な技術が必要なため、ある部門の長に私のメッセージを伝える者を準備させるために、何年にもわたる訓練が必要だ。私のメッセージを伝える過程には、正しい方法と間違った方法がある。私のメッセージは非常に重要だ。そのため、間違った方法で伝えると、伝える者がそのメッセージが注目されないことについて責任を負うことになる。」

「誰かが人々を導く前には、まずその人は従う者にならなければならない。節制、忍耐、尊重、礼儀、表現方法についての試しを経てこそ、私はより大きな任務を任せることができる。私は権威と責任ある地位にいる人々を非常に尊重する。私は彼らの職責を非常に深刻に受け止める。彼らが私に助言を求めなければ、私は退いて見守る。彼らが私を訪ねてくれば、私は提案をするが、彼らの権威と職責を尊重しない方法では決してしない。決して強圧的にはしない。『私だけが正しい答えを持っている』と仮定したり、『神様が私にこのように部署を運営するように言われた』、あるいは『このように働きをするように神様が言われた』、あるいは『あなたに言うように神様が私に言われた』というようにはしない。」

「私のメッセージを伝える者は、私の声を長い間聞いていて、私の声を知っている。他の声には従わないだろう。あなたたちの提案が本当に私から来たもので、適切な方法であなたたちに与えられたなら、『神様が私にこう言うように言われた』、『神様がこうするように言われた』、『神様があなたの組織に何が間違っているかを見せてくださった』のような宣言をしなくても、私が聞く者の耳を開くだろう。これらが、神様のメッセージを伝える者たちがより大きな任務を担えるように、必ず学ばなければならない教訓だ。あなたたちの動機は正しいかもしれず、あなたたちの理解は正しいかもしれないが、伝える方法が間違った方法になるなら、あなたたちがすることは間違ったものになるだろう。」

「私の民よ、あなたたちは部分的にしか見ておらず、部分的にしか聞いていないことを知ってほしい。あなたたち皆は、敵の巧妙な策略に常にさらされている。あなたたちのうち誰も、私の声を聞くことにおいて完璧ではない。あなたたちが心から私に仕えに来るなら、あなたたちは推測で行動したり、天使たちさえ恐れる場所に性急に飛び込んだりはしないだろう。むしろあなたたちは慎重に歩み、聞くことには非常に注意し、聞いたことについて他の人々に話す時にはどう話すべきか非常に慎重に行動し、いかなる瞬間も自分がよりよく知っているとは考えず、天が自分により良いものを示したとも推測しないだろう。むしろ私に代わって話す時、恐れとおののきをもって語り、穏やかにその言葉を伝えるだろう。それは、あなたたちが以前に過ちを犯したかもしれず、今後もまたそうする可能性があることを、よく知っているからだ。なぜなら、あなたたちが私の名によってメッセージを伝える時、あなたたちが過ちを犯すなら、それは本当に深刻なことになるからだ。」

(ヤコブの手紙 3章1節) わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません。わたしたち教師がほかの人たちより厳しい裁きを受けることになると、あなたがたは知っています。

(テモテへの手紙一 3章6節) 監督は、信仰に入って間もない人ではいけません。それでは高慢になって悪魔と同じ裁きを受けかねないからです。

「監督は、私が与える知恵で部門の長たちに助言する人だ。彼が私の権威の言葉を持って行くとしても、決して『神様があなたのすべきことを私に言われた』と言ってはならない。むしろ彼は謙遜のうちに真理の御言葉を提示し、聞く僕は私の意志を理解してそれを心に刻まなければならない。このようなことは監督たちに与えられた任務であり、私を信じて間もない人々の任務ではない。私にあってまだ経験の浅い人々が、牧師に何をすべきか催促するように話すのは、人格形成が未熟なのだ。そうすれば軽蔑と侮りを受けることになるが、それはある意味当然のことだ。牧師は私の声を知らなければならず、他の者に従ってはならない。また、牧師は私の運営方式を知らなければならない。」

「あなたたちの中には、私の声を聞くために最善を尽くしたが、うまくいかなかった場合があるだろう。これは、あなたたちが私の前でどれほど正直で裸の状態であり、どれほど過ちを犯しやすい存在であり、何も持っていない存在であるかを悟らせるためなのだ。そして、そのように自分自身を極めて低くする私の謙遜が、あなたたちの中に見いだされないなら、それが私の声を聞こえなくさせているのだ。」

「多くの場合、私が見せるものは祈れという意味であって、他の人々に公に宣言するように言えということではない。初心者は、自分が私の声を聞いていることを世に示したいという傾向があるが、私はその尊いものを私たち二人の間だけで大切にしたいのだ。そのような未熟さのゆえに、私はすぐにその人に対して沈黙することになる。賢い人は言葉を慎み、人々に不快感を与えず、より頻繁に沈黙する。このような人とは、私は自由に対話することができる。」

「私があなたたちを信頼して大きな宝物を預けた時、それを盗人たちに自慢して見せびらかしてはならない。あなたたちが眠っている間に、彼らが入り込んできてあなたたちを殺し、その宝物を盗むからだ。このように、悪魔たちはあなたたちの言葉の過ちを待ちながら見守っていて、あなたたちをどうすれば最も良い機会に罠に陥れることができるか、たくらんでいる。」

「私の子供たちよ、私があなたたちに大いなる神秘を啓示するほど、あなたたちはさらに慎重になり、さらに謙虚にならなければならない。そのような知恵と神秘は、あなたたちにしばらく貸し与えたものであり、いつでも私はあなたたちを元いた無知の状態に戻すことができるということを、理解してほしい。時には、私がこのようなことをしなければならないこともある。あなたたちが慎重さと謙遜という徳を学ぶように、以前に教えたものをあなたたちから奪うことがある。これはあなたたちを罰するためではなく、あなたたちを形づくり、あなたたちのために偉大なことを準備するためにすることなのだ。」

これが主のメッセージの終わりです。私はヘブライ人への手紙12章の御言葉が、思い浮かび続けました。

(ヘブライ人への手紙 12章5~13節) また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。

私がたった今この聖書の箇所を終えた後、この部分を集中して見ることになりました。ワオ。「また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろいやされるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」これがまさに今日、主がおっしゃる内容です。主は、そのメッセンジャーたちを遣わして魂を癒そうとなさいますが、私たちの道がまっすぐにされなければ、足の不自由な者たちを癒すことはできないでしょう。むしろ彼らは、足の不自由な者のまま、残ることになるでしょう。

私たちが仕えるように遣わされた場所、そこにすでに傷ついた魂、足を引きずっている魂が、癒されることができるように、ということです。

主の祝福が、Heartdwellersの皆さんと共にありますように。今日の御言葉が皆さんに、働きの様々な側面について、少しでも助けになればと思います。今夜、主がおっしゃったすべてのこと、私はこのすべてを経験しました!過去だけでなく今も、毎日細心に調整され形づくられる機会があることを、証しすることになります。主がそのようにしておられます。皆さんの助けになりますように。